格差社会について/種々雑感

シンプルに感覚的に考える。

終戦直後、米英に比べて低い水準にあった生活の質が、

高度経済成長によって全体的に底上げされたのが「一億総中流」の時代。

そこから、バブル経済によって、どんどん上層が伸びる中、底辺の特に農林業が伸び悩んでいたが、

バブル崩壊によって下層から中層までの成長が鈍化あるいは漸減傾向に陥る。

一方で、上層は特にアメリカの上層の伸びを見て更なる成長を目指した。

その結果としての、格差の拡大だと思うんですよね。

アメリカの格差が、一面としては移民の流入によるところであるのとはまた異なる。

貧しさには二種類あると思う。

ひとつは、資源がないことによる貧しさ。

これは、水資源が少なかったり、耕作可能な土地が少なかったり、鉱産資源が少なかったり、人的資源が少なかったりする貧しさ。このすべてを兼ねた国は、国際的に魅力が少ないので自然と孤立する。

もうひとつは、相対的に競争力が劣ることによる貧しさ。

資源があっても、技術的に劣っていれば困窮に陥りうる。

たとえば、食料生産が少なくて鉱産資源があれば、国際取引において鉱産資源と食糧を交換せざるを得ない。

人口は調達可能な食料を消費する限界まで増加しようとするから、食糧生産と鉱産資源採掘に使用される以上の労働力が生まれ、そこで他の産業を興す必要が生まれてくる。

その際に必要なもろもろの技術は他国から輸入されるものであるし、そこで儲けが出るように売り手は売る。つまり、先進国側がなるべく損をしないような戦略がとられる。そうしないと立場が逆転する恐れがあるからだ。

食料の充足を背景として技術的に劣る国が断交を試みても、技術的に劣るからこそ極端な例では戦争によって無理矢理に交渉は開始される。

かつては陸続きでなければ外交が成り立たなかったが、交通技術が発達した今となっては、地球上はすべてひとつになっているといっていい。

しかし、追いつかれないような戦略をとって追従を遅らせたとしても、その優位は、世界の各国がそれぞれに発展してそれぞれに需要を増す中で資源の重要性が増すことで、次第に小さくなった。

また、英語が世界言語となることと、科学が開かれた議論によって成り立つことによって、技術情報はどんなに特許権で保護しようとも並行的に発展可能であることによって、教育に障害を設けることは困難であった。

こうして技術的な力関係も差が小さくなってきている。

こういう優位がなくなると、先進国が後進国から吸い上げられる利益は減少する。

しかし、先進国の上層は生活レベルを低下させないから、そこで先進国内で格差が拡大しがちになる。

戦争によって徹底的に破壊することで相手国の文明レベルを低下させるという手段もあるけど、人の移動が大きく融和を志向した時代を経験し、また、小集団のテロリズムが持つ破壊力が社会的に無視できない規模になっている現代としては、あまり有効な手段ではなくなっていくだろう。

国境は物質的な移動の境界ではなく、文化的な境界を意味するようになりつつあり、近い文化で集合体を形成する方向へとシフトしている。

もし、生産性がフラットになったとすると、人は所属に適した文化圏に選択的に居住するようになるだろう。

そういう人材確保の方向へと税制は変化していくだろうし、低廉な労働力よりもそれを扱う優秀な人材を確保する国家が勝つようになる。もちろん、働けない高齢人口を多く抱えると、その分、彼らの世話をする低廉な労働力を必要とするために競争的に不利だ。

最終的には、食料生産能力に見合った人口が適正に配分されるようになるのだろうけれど、それにはまだまだ時間がかかりそう。

制度というのは状況と常識によって作られるが、状況の変化は常識によって観察を阻害される。

だから必ず遅れをとるし、それを先見をもって古びたものを斬新に変化させられる人材は貴重だ。

常識を疑えは正しい。

しかし、常識以前の根本としての人道は揺るがせることはできない。

人道とは、人が修めるべき良い道だけではなく、人が陥りがちな悪い道も含んでのことであり、情理といってもいい。

その弁別ができる人間が必要だと思う。

日本に限れば人材は余っていると思う。

人材を育成するシステムが現状にあっていないから疲弊しているだけで、もっと有効活用できると思うんだよね。老老介護という言葉があるけれど、動ける60代が動けない80代を介護するのならまだ、おかしくはない。同世代同士で介護するからおかしい。

ニートの問題も、コミュニケーションの問題だと思う。

使いようでしょう。

豊かさを見せるテレビや雑誌の幻影が、一番問題だと思う。

誰もがああいう豊かさに浸ることができるという幻想。

もっと充足すべき根本を見失っているというか――。

演じている当人たちすら満足に維持できない豊かさが、どうして在ると信じられるのか?

僕には良くわからないけど。僕は僕なりに充足しつつあるし、不満を持ったりする。

信じていないことに問題があるけど。

……んー、いまいちだけど、まあ、まだまだ発散しているけれど以前よりはまとまりがでてきたかな。

もっと知識を得て、発想の方向性と順序に秩序を与えないとなぁ。

問題が山積するということは漠然としていた危機感が具体化するということで、語りやすくなるということだけど、それでは間に合っていないからね。

それを分かりやすく文章化することは、経験によるところが大きいのでしょう。

もっと、積み重ねないと。

要は、っていうか、背景に通底しているのは、世界のすべての国で同じ生活が成り立つとは思っていないということ。

それは、日本国内に限定して中央と地方が同じ生活をできないのと同じ。

そして、同じ考え方をした人間しか同じ暮らし方をできないということ。

その違いが理解できる範囲内に収まらないと無理。

そういう距離が遠ければ考え方の違いを無視できるけれど、技術がその距離を短くしたから考え方を変えないとね、って感じ。

なんか、わけわかんないんですよ、何を目指しているのかがわからない。

ここでそんな生活を志向して、だったら、相対的に恵まれたあっちは何を望むの?って。

こことそこは同じにならないでしょう?って。

それは、差を自然な差ではなくて、制度的な差に求めた時代とは確かに違うけれど、自然にある差には我慢すべきじゃないの、っていうか。

それは適正な規模なのかよ?って。

敗者の美学というか、素直さというか……

うーん、やっぱまだ遠いな。分からん。