はぐれ雲/daily

「世界で私だけが正気である」と発言すれば、それがそのままに狂気の証明となるだろう。

だが、その正気と狂気の弁別を行っている私は正気だろうか?狂気だろうか?

正気、あるいは平均的な人間像というものは、架空の物にして実在しないのだろう。

ある人間性、人間行動、身体的特徴において支配的な状態を指して、それを人は普通と言う。

四肢がまったく揃っていること、異性に対して欲情すること、子供に対して優しくすること、唐辛子を入れすぎないこと、マヨネーズをご飯に掛けないこと、それらは、それぞれに身体において、性欲について、対人行動について、食事行動について、各分野の平均的行動を集めたものであって、一個の平均的人間のモデルが存在して、そういう行動言動が普通であると認識しているのではない。

平均的人間像「普通の人たち」というのは、あくまでもそういう要素の集合された概念でしかない。

しかし、その平均的人間を構成する要素というのは、人間の性質として広汎に観察されるものであるから平均的人間像の構成要素となっているだけあって、多くの人間に共通する。

多くの人たちは、多くの普通の要素を持っている。

それを個々の個性ある人間たらしめているのは、その中に少しずつ含まれている普通でない部分であり、それは例えば積極的であるとか慎重であるとか、腕力が強いとか弱いとか、手先が器用であるとか、発想が豊かであるとか、そういうものである。

それらはそれぞれに長所であったり短所であったりする。

つまり人間とはどこかしら普通じゃない部分を有しているものなのだと思う。

法や組織のシステムは、そういうレギュラーでないものを扱うのが得意ではない。それは、公平に扱われるものであるからである。しかし、公平に扱うためにそれは明快な論理を有している。そしてその論理から敷衍して一般解でない特殊解を得る事も可能である。

その特殊解は、境界条件を指定して(例えば地域を限定したり、年齢を限定したり、性別を限定したり)、限定的に運用される。

その条件をどれだけ日常において人は意識しているだろうか?

地球上という条件では異質な存在も、ある小さな文化サークルに収まれば異質の度合いは小さくなる。

なるべく多くの時間をなるべく自分を異質でなくす集団に所属させること、これは延命のためには必要なことであろう。

異質であることは排除に繋がらなくとも、少なくとも「扱いにくさ」によるコミュニケーション異常には繋がる。

それは時には不足であったり、時には過剰であったりする。

問題は集団に所属するということはその集団の中で関係性が閉じてしまう危険性を有するということだ。

より適合するはずの集団に触れる機会が生じないのだ。

ここで、組織は全体としてはその組織自身が継続的に存在するための機能を有しつつ、その構成要素に対してはいつでも外に出てゆける機能も有しなければならないことになる。

つまり、代謝である。

こういう論理というのは、生物個体の生理学としても社会集団の社会学としても適用可能な部分があると思うし、そういう議論はなされているのだと思う。

つまり、要素数とその運動量と集団の規模から最適なふるまいの傾向が現れるような、何かが。

そういう規模を持った集団という個の集合の偏差が、雲と人間個体と人間集団の偏差であったりするのかもしれないという妄想。

昨日人間がたくさんいたので疲れてしまったのかな。

じっとしていたい気分だ。