塩野七生『ローマ人の物語~迷走する帝国』(32~34)新潮文庫/読書感想
塩野ローマ史の終盤もかなり佳境に入ってまいりました。
属州民がローマ市民になったり、
元老院と最前線の人材交流が激減したり、
キリスト教が台頭してきたりしています。
北方蛮族の騎兵による電撃的略奪行為に対抗してローマ軍も騎兵を主力に据えるようになるのですが、遅きに失した感がありますね。
それは作中でも触れられているのですが、騎兵を用意するにはそれなりの資金が必要となり、そこに格差が固定化する土壌が生まれかねず、歩兵を中心とし、歩兵からの成り上がりを受容することにより優秀な人材を吸い上げていったローマの人材育成システムに馴染みにくかったということもあるでしょう。
しかし、北方蛮族にとってはこの騎兵重視の遅れは、略奪の常習化につながってしまいました。
負け続ければやり方を改めるでしょうが、勝ったり負けたりですから、博打と同じ時の運あるいは神様の気まぐれと感じられたでしょう。
それでも、有能な人材が現れては消えていくわけですが、それは軍部と一部の元老院議員であって、元老院そのものの意思決定機関としての弱体化は本当に著しい。
それから、塩野氏は直接民主制の一環と目しているのかもしれないけれど、皇帝不信任の表明が暗殺という形式をとることが慣習化したのが人材の枯渇につながっている。
政敵に殺されたカエサルならばともかくだ。
これが追放であれば、後の再登板なども考えられたのだが。
苦境におけるキリスト教の拡大というのは、神との関係性の違いが大きいだろう。
キリスト教の基本姿勢は、「現世利益は期待できない」ということに尽きる。現世の不利益を「試練」と称して来世の利益に変容させることができるからだ。
これが順境では、あまり旨味がないように見える。
『イリアス』なんかを読んでいても神々は自分の好みであっちについたりこっちについたりで、たとえ信者であろうと自分の味方をするとは限らないような振る舞いを見せる。
しかし、キリスト教はそうではない。神は信仰に対して、奇跡か試練を与えるのだ。
苦境になれば逆に旨味が増すのである上に、さらに、相互扶助のシステムがある。これは排斥される者の間での助け合いが拡大されて、弱者を助けることによる布教活動の形をとったのだろう。
信じられるものが少なくなると個人主義に走るというかなんというか、そんな中で弱者救済を機能として持つ組織が数を獲得し、数の力を持っていくのだろう。