記憶/daily

ちょっと言い訳を考えてみた。

暗記モノが苦手だという意識がある。

それは、もっと極端に言えば「自分の記憶をあまり信頼していない」とすら言える。

僕は「自分が都合良く物事を解釈しようとし、そしてその都合のいい解釈のまま記憶を作り上げようとしていることを知っている」と思っている。

なぜ、そういう思いを抱いているか?

それはひとつには、ずっと夢を見ていた経験に起因している。

それはとても都合がいいものが多い。

夢の中の僕は現実の僕を騙そうとしている。

しかし、時間が経つにつれ現実は夢と同じくらい曖昧な記憶となってしまう。

僕はそれらの判別に苦労するようになる。

だから僕はそういう不確かな記憶を頼りにすまい、と考えてしまう。

もうひとつには、現に忘れてしまったことがいくつかあるという経験に起因する。

例えば、今「ゲド戦記」を読み返しているが、1巻の内容は読んだ覚えがあるのに、2~4巻の内容は読んだ覚えすらない。しかし、4巻まで読んだと言う記憶はある。そういう欠落感には昔からうすうす感づいてはいた。だから、自分は近い事実でも忘れうるだろうという危惧をずっと抱いて生きてきた。

つまり、ありもしない記憶とあるはずの記憶とによって、記憶は完全足りえない可能性があると信じてきた。

ゆえに、僕の生産物は生み出された後からその存在の確かさを確かめる必要がある、と僕は考えてきた。

これは、事実の積み重ねの後によって無いものを生み出す研究の一般的なあり方とは逆である。特に、工学分野では異端である。

そこにもギャップはあった。

そして、一昨年、去年と、半覚醒のような状態にあって、記憶のあいまいさは増したように思われる。

だから、自分が書く自分自身以外の事柄に関する文章が正確であると言う自身が無い。

そういう意味で記憶は失われてしまっていると言える。

事実、一昨年混迷の中で読んだ先行論文の結論をほぼ正反対に曲解していたと言う例がある。

その論文は都合4度読んだが、正確な意味を解したと感じたのは本年4月のことであった。そして、その時読んだ記憶も現時点では失われ、身についてない。

すべての論理が刹那的であり、耐久性のあるものたりえていない。

それに僕は自身で気づいている。

しかし、対策を打てないでいる。

研究を続けたいのであれば記憶を補填しなければならない。

しかし、正直なところ資料を見ると悪寒が走る。

新しいものを得るのはそれなりに大丈夫なのだが、それらとそれらの周辺の記憶だけが定着しづらくなっている。

それらを「それら」としか表記し得ないように、それらに接触することすら努力を要する。それらとはつまり、地区計画を用いたまちづくりなのだが……

さて、どうしたものか……。

逃げてしまうのは簡単だ。

今も逃げ続けているからな。

だがしかし……わからない。それにしてもわからない。

自分の研究の意義が信じられない原因が、論理性が指摘する「ツールとしては有効であるが、使う者がいない」という欠点によるものか、それともそれすらも単なる嫌悪感の産物に過ぎないのか。

記憶が不完全なために判断ができない。

そういう思考の循環の渦の中で……理性が減衰していく。

運動量は、渦運動に減衰する……。

単位体積の……開放されないエネルギー……

流れがポテンシャルを失い、止まる。

渦が流れを弱め、ゆっくりと拡散し、消える。

足りない。

足りない。

足りない……。

…というのはどうだろう?

……。

…ダメか。