『四季・春』森博嗣(講談社)/小説

S&Mシリーズ、Vシリーズ、そしてこの四季シリーズ。

全て同じ時間軸上に乗っているのだけれど、糸の絡み合いは複雑怪奇。

頭の中で人が動いているからこそ出来る業ですね。

全く、羨ましい限りです。

それにしても意識に対する森氏の洞察は深いですね…

それが四季の天才性の描写に役立っている。

以下、多分ネタバレするので注意。

僕は、記憶という作業は「記録」「保存」「再生」「認識」の四段階から成ると捉えている。この四段階は「空の境界」に書かれているものとも、「異邦の騎士」に書かれているものとも異なる、僕個人のこの場での解釈であることを明記しておこう。

脳はただ、刺激を「記録」する。そこに作意は働かず、原則的にすべての刺激が「記録」されるはずだ。そして「保存」される。これらの段階に自我はない。

問題は「再生」の段階からだ。

「再生」するにはその「記録」へと至るきっかけや手掛かりが必要だ。そして、その手掛かりは多ければ多いほど「再生」は楽になるだろう。視覚だけの記録より、聴覚、嗅覚、触覚、胸の痛み、その記録の持つ意味…そういう複合的な刺激を持つ記録ほど「再生」しやすい。ここに自我は介在する。そして、「再生」とは時間軸を遡ることである。

そして、「認識」。「認識」には言語が大きく関わる。それは認識には思考が伴うからだ。思考は言語(記号)が用いられる。そして、思考の方向性は自我の構成に従う。だから、「記録」を「認識」し損なうことがある。或いは「認識」させないことも可能である。「認識」とは刺激の取捨選択であるのだ。

ちなみに、このシステムはリアルタイムでも働いている。つまり、刺激を受けて脳を解して「認識」している。そして、僕らはリアルタイムでも刺激の取捨選択を行っている。

空の境界』と『異邦の騎士』では「認識」が「再認」と書かれている。これは「記憶が変わらぬ同一であることを認識する」という意識が強いからである。しかし、僕はここでは純粋に記憶の手順だけを論じたいのであるから、同一であることを認識することに注意を払っていないだけのことである。人は嫌な記憶は忘れてしまえるし、都合のいいように記憶を書き換えることも出来る。ある個体が存続する上で、記憶が普遍である必要性は全く無い。

記憶障害とは、社会的関係を構築する上での障害であり、社会性の病理である(他の精神疾患も同様)。敢えて「再認」のことを論じるのであれば、きっとそれは、純粋な記憶とは滑らかな刺激の連続であるのだから、不連続面の存在、或いは他の刺激の記録との非対応性から「『再生』に支障が出ている」と認識できるだろう。でも、それはどうせ他人にも保証できないものだよ?あらゆる機械も光なら光の記憶しか出来ない。音も正確に聞こえたようには保存できない。

さて、何故記憶の話をしたかというと、四季の天才性が記憶の手順が理想的であるという点に集約されると思うからだ。

四季は視覚のみでも十分に「再生」つまり時間軸の巻き戻しを正確に行える。恐らく、視覚だけでなくあらゆる感覚についてそれが行えるはずだ(ただし、基志雄の母と会った時点から、その完全性は人格レベルの四季には失われてしまったものと思われる)。それが究極の記憶の形。

そして、何故人は記憶するのか?それは、世界を写し取り、それにリアクションするためだ。それは、即時対応だけでなく、未来への予測も含むリアクションである。

彼女が―というのは彼女全身を指すのだが―記憶できていないことを基志雄が憶えていたシーンがあった。あれはつまり、彼女は四季が憶えていたくないことですら、基志雄や他の人格によって記憶することが出来る。ただし、基志雄が記憶の再生に時間が掛かっているような描写があるのは、恐らく彼の割り当てが低いからだ。

さて、四季と基志雄で意見が分かれたりするので、一見、基志雄の役割は記録の再解釈に見える。しかし、単に異なる視点からの再解釈を試みるのであれば日常的に我々がそうしているように、「天使の僕と悪魔の僕」方式で十分。まして、四季ほどの頭脳ならばもっと多くの視点からの検討が可能だろう。しかし、実際は彼女の価値観は高い次元でまとまっているから可能と言うだけで検討に移すことは無い。では、何故基志雄が存在するかと言うと、それは基志雄を理解するためだ。

人は何かを理解するために誰かをコピーして自身を構築する。

例えば僕は―というか多くの人が母を転写する。何故か?最も身近で、最も理解すべき生存するために必要な人物だからだ。その重要人物の人格を転写し、その行動を先読みし、生存に活かさねばならないからだ。そしてそこに父や親族、友人、ヒーロー…いろいろな人物の転写を重ねて個性を構築していく。それはそもそも生存のための理解だ。そして解らないからこそ理解しようとする。

四季の頭脳であれば殆どの人間は理解できる。彼らの扱える要素数が彼女にとって十分少ないからだ。しかし、基志雄は違った。自分から少し切り離して個別に成長させねば完全に理解しえない存在だった。だからコピーを作って独立させた。或いは、そうまでして推測し、彼の行動を先んじてコントロールする必要があった。

佐々木須磨は少し違って理解するためではないだろう。多分、楽しく家事をするためだ。否、『すべF』の一文から受ける印象とかなり違う。これも何かあるに違いない。次の巻以降が必要だろう。

つまり、人格は何らかの外部出力を必要とする際に必要なのだ。それは記録の再解釈であったり、それに基づく行動、発想、或いは刺激の記録―あらゆる視点から刺激を受け取り、記録し、またあらゆる視点から再解釈する。それを高速で行う。しかし、思考が高速なのもまた、記憶が正確だからだ。だから、四季は天才なのだ。

しかし、四季の体は女性だから、多分男性は理解できまい。身体感覚は人格にとって重要だ。生理も異なるし、成長速度も異なる。生む側と生ませる側の違いもある。その意味で、四季の子が女性だったのは何と言うか脚本の妙か…恐ろしい。恐るべし森博嗣

いや…結局は母を理解したかったと言うことか?とりわけ、伯母を?しかしそれは…

…?途中で何を書いてるのか解らなくなった…(´・ω・`;)

まあ、いろいろ考えたってことです。

あ、透明人間は僕に似ていると思いました。

感覚がだだかぶりで、書こうとしているものと被るかと思って冷や汗モノでした。