エラリィ・クイーン『Yの悲劇』(ハヤカワ文庫)
意外な犯人と秀逸な筋立て。
ただ、僕にとってはむしろ、あの人物が犯人であることをある程度予測していただけに、ちょっとがっかりしました。僕は、犯行前、犯行時、犯行後の犯人の心理描写を重視する傾向があって、その意味では面白みにかける犯人だったものですから…。
それにしても、ドルリイ・レーンは良く言えば重厚、悪く言えば重苦しい探偵ですね。捜査の過程であんなにどんよりされるとこっちの気も滅入ってしまいます。
でも、確かに素晴らしい作品です。
当初は感情的にも☆3つを付けていましたが、謹んで☆4つに修正させていただきます。
ま、読後しばらく経って自分の中で評価が落ち着いてから、こっそり星取りを修正することは良くあことなんですがね。
ところで、僕はこの小説で重要なある人物について、小説中に描写がある以上の部分について興味が
湧いたので、特に別に「続きを読む」に考察を加えたいと思います。
何故「続きを読む」に書くかというと、間接的ながらも彼の行動が小説の面白さに関わるからです。
つまり、平たく言えばネタバレします。
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さて、僕が『Yの悲劇』において最も興味深いと思ったのはヨーク・ハッターという人物です。
まずざっと彼の略歴をおさらいを。
若きヨーク・ハッターは貧しい一学徒ながらも、将来を嘱望される化学者でした。
しかし、富豪の娘であり強烈な個性の血を受け継いだエミリー・ハッターと結婚してから彼の人生は大きく変化します。妻は彼に高圧的態度を示し、彼女の資産への感謝と彼女への服従を強いました。
さらには、やがて生まれた彼の三人の子供達も母の血を濃く受け継いで奔放に育ち。長女を除いた二人などは彼を見下すようになりました。
そんな環境下で、彼は気難しい人間になり、許可を得て作った実験室に篭りきるようになりました。
そして、彼は突然自ら命を絶ちます。
毒を飲み、海にその身を投げ出した。ポケットに短い遺書を書き残した一切れの紙を忍ばせて…。
その遺書はこのような文面でした。
「関係者に
わたしは、完全な精神状態で自殺する。
19――年12月21日
ヨーク・ハッター」
『完全な精神状態』とは、どういうことだろうか?
まるで宣言するような文句。
そう、「私は異常ではないのだ」とでも言いたげな―。
彼は死の直前、老境に至って突如、推理小説を志しました。
それは、彼自身が住む家を舞台とし、彼を含むハッター家の全員が登場し、被害者は彼の妻であり、犯人は彼自身である、というものでした。
つまり彼は現実に即した推理小説を書こうとしたのです。
彼はその優れた知性を以って、綿密な「妻の殺害計画」を構築しました。
殺害計画には、現実の家族の慣習を盛り込み、現実の間取りを取り入れ、実験室に保管している薬品を使用しました。そして、犯人は自分自身。
推理小説のお約束、「探偵へのヒント」もちゃんと用意しました。彼は、皮膚病を患って薬品を足に塗っていた。その現実に彼からも嗅げるはずの匂いを、ヒントとして採用しました。
そう、小説はどこからどこまでも現実に実行可能だったのです。
彼は殺害までは綿密なプロットを、犯行以後の犯人の偽装工作については大まかな流れを、彼はまとめてノートに書きました。そしてそれを自らの実験室の引き出しに閉まったまま、帰らぬ人となりました。
小説は完成されなかった。
彼は最後まで書き終えなかった。何故か?
僕は推測する。
最初は、ほんの些細な思い付きから始まった筈だ。
(煙突を介して妻の部屋と実験室は繋がっている。それを利用すれば…)
ほんの心の慰みのつもりだった筈だ。空想の中でのだけの復讐。ほんの気晴らし。
(だが、単純に殺すのでは私も疑われてしまう。他の家人も疑われるような…)
些細な発想から生まれた計画は次第に精密さを増していく。空想する間は、楽しかったろう。
そしてその計画の完全さに酔った彼は、それを自分の中にだけ仕舞っておくのが勿体無いと思うようになった。
(そうだ、推理小説にしよう。これは愉快な復讐だ)
その犯行計画の鮮やかさは一般読者にもウケル自信があった。だが、それが現実に即しているのだと知っているのは私だけ。私があの妻を殺す計画を、皆で楽しむのだ。これほど愉快な復讐は無い。
彼は、ノートに書き出した。
ノートに書くことで記録できるし、客観的な検討を加えることもできる。
(そうだ、こうして…こうして…)
空想は次第に実体化していった。いくらノートとはいえ、自分の頭の中で空想するのと、外側に在るのを認識するのでは意味が違う。
次第に彼は、小説の完成よりも計画の実行に魅力を感じるようになった。
それまでは、侮辱への報復を瞬間に思いついた所で、実行すれば自分はさらに惨めな立場に陥ることが明らかだった。それは彼の残されたわずかなプライドでは許されないことだった。
そう、彼は我慢し続けていたのだ。
だが今は、ほんの少し「探偵へのヒント」を削るだけで、自分が犯人であると露見しないで妻をこの
世から排除することができる。
(成功すれば、私は彼女の遺産を受け継いで…)
それは狂気だ。
計画はある。後は、実行するだけなのだ。最早小説を仕上げるどころでは無い。
狂気に身を任せてしまうか。それとも、狂気を抑え続けるのか。それとも…。
だが、年齢を重ねるごとに弱まる意志力を、彼は自覚していたのでしょう。
彼は狂気に囚われる前の、完全な精神を保ったままの、尊厳ある死を選んだのです。
殺人者に堕する事無く、人間としての死を。
それがあの、完全な精神状態を誇るかのような遺書だったのでは無いでしょうか?
だがしかし、完全に健全な精神状態を志向した彼の意思とは裏腹に、狂気はメモを介して伝染し、彼の血を受けた人物の手によって具現化してしまいました。
その運命の皮肉が、この『Yの悲劇』の最大の魅力だと思うのです。
その辺を上手くストーリーに絡めて書いて欲しかった…。