自由と知性/時事

デンマークの新聞がムハンマドの姿を描いた風刺画を掲載したことに端を発した騒動がなかなか収まる気配を見せません。

発端は一つの風刺画であり、それに対してイスラム社会が当然の反発を示しました。偶像崇拝の禁止、神や預言者の図像を描く事は禁忌とされているからです。

しかしこの反発に対して、ヨーロッパの各国の新聞が「表現の自由」を掲げて、転載や同様の風刺を掲載しました。

これによって、イスラム社会の反発はデモや報復的記事の掲載へと広がりを見せています。

僕は風刺画を掲載した新聞社が悪いと思います。特に、後から同調した新聞各紙は最悪です。

イスラム社会において偶像の作製が禁忌である事は頓に有名であり、全世界に対して公平な報道を心掛けるべき報道機関が、イスラム教徒への配慮を欠いて斯様な風刺画を掲載した事は当然非難されるべきだと考えます。

また、報道機関が「報道の自由」はともかく、「表現の自由」を主張するのはお門違いだと思います。まあ、このケースでは「報道の自由」を主張した時点で公平性を追求されて窮する事になるでしょうから、戦略的に追及の手の及びにくい「表現の自由」を主張するのは心理的には理解できますが。それでも誤りは誤りです。

「自由」とは絶対的なものではなく、時代によって、文化によって変化する相対的な概念です。

自由を限りなく主張し続けると、必ず誰かの自由を侵害し、対立します。

「無限の自由」など存在し得ないし、認められません。

表現の自由」や「報道の自由」は、それによって何らかの自由を侵害される人がいない限り認められます。

今回の騒動に関して言えば、まず、預言者ムハンマドの図像を制作する事は、ムスリムにとって耐え難い苦痛を与える事が容易に予想可能であり、その掲載によって不特定多数のムスリムの「信教の自由」を侵害する事が明らかです。

この提示を基に、次にはムスリム偶像崇拝の禁止に関して「信教の自由」が現在の社会でコンセンサスが認められているかを検討します。

「信教の自由」も、それが社会通念上認め得ない過剰なもの―例えば、過度の体罰や極端な喜捨を強要する等―を含む場合は、制限されるものなのです。問題は、社会的な認知の度合いなのです。

さて、問題は「偶像崇拝の禁止」が社会通念から著しく逸脱しているか、です。これに関しては、かなり広く知られた教義であり、また、肉体的経済的な打撃を与えるようなものではなく、他の宗教の信者に強要しない限りは非難されるべきでない、問題ないものであると考えられます。

ここにおいて、その正当性は「信教の自由」の側にあり、「報道の自由」は確実に制限されるべきです。ただ、デモはともかく、暴力に訴えるのは過剰です。言論の暴力に対しては、正々堂々言論によって対すべきです。

ただ、「表現の自由」に関して言えば、それは自己責任の度合いが強いためにここでどちらが優越するかは明言できません。ただし、良識の範囲で言えば、避けるべきでしょう。

文化として風刺に自由度が高いのは結構ですが、文化圏が違えば風刺の自由度も異なる事くらいは頭の片隅に置くべきです。

自由の押し売りは最も忌むべきです。

あらゆる自由は「心の自由」です。

あらゆる不快、あらゆる圧迫からの精神の自由。心の底からの欲求。

しかし、同時に人間は社会的動物であり、相互に干渉しあいます。

自由は衝突し、知性はそれを緩和する。

相手を理解し、自らを理解してもらうために知性と言語は存在します。

互いに過剰な反応の応酬を控え、対話によって互いの自由に関する認識を交換すべきでしょう。