体罰などについて

僕は「体罰反対派」なんですけど、理由がいくつかありまして。
という書き出しで、別の所に書こうと思ったのですけど、あまりその場所に適したいいまとまり方をさせることができなかったので、ここに雑に置いておきます。

まずは、「お尻ペンペン、逆効果 問題行動リスク 日米チーム幼児調査」

https://mainichi.jp/articles/20170731/dde/041/040/052000c

ということで、「3歳半の時に保護者から体罰を受けていた子どもは、全く受けていなかった子どもに比べ、5歳半の時に「落ち着いて話を聞けない」という行動のリスクが約1・6倍、「約束を守れない」という行動のリスクが約1・5倍になるなど」という調査結果が出ています。

個人的にプール後の疲労と空腹と解放感でバスの前から飛び出して交通事故に遭った経験から思うのは、げんこつくらいで車道に飛び出すのは止められないです。本当に死にかけないと人は本能的に道路などを怖がるようになりません。交通事故に限らず、痛みで行動を制限させるようにするには最低でも骨を折るくらい必要だと思います。

これだけでも体罰が無意味というのには十分ですが、他にもいくつか理由があります。

一つは、「体罰を受けた子の中で命の価値や、暴力への心理的ハードルが下がる」ということ。

もう一つは、「規則に定められない体罰は、正しい運用が保証されない」ということです。

僕が体験した実例を元に話を続けます。

また、体罰なしでどうしていくべきと思うか、という話も書きます。

 

まず「体罰を受けた子の中で命の価値や、暴力への心理的ハードルが下がる」について。

小学生の時に、家でしつけとして骨を折られる等の虐待されてた生徒が、先生から頭にげんこつ(体罰)を受ける度に腹いせに隠れて他の子を殴っていました。

これはつまり、「体罰を与えた人にとって問題は解決したように見えても、体罰を受けた人物の『暴力を行使する心理的ハードルを下げる』ことで別の問題を生み出しうる」ということでもあるのです。

そして、その生徒は、たったひとりだけ気に入ってる先生がいて、その先生の前で4階の窓から出てほんの20センチくらいの庇の上を歩いて見せて先生が本気で心配してくれるのを見て嬉しそうに笑っていた姿がより強く印象に残っています。これが「自身の命の価値が下がる」という副作用。


次に、「規則に定められない体罰は、正しい運用が保証されない」という話。

中学時代の体育教師に、担当する部活で、生徒のテストの成績悪かったり、ひどいプレーをしたりすると金属バットで尻を叩くなどの体罰をしていた人がいました。

この教師、僕が階段から突き落とされるのを見たはずなのですが、突き落とした生徒に「ほどほどにしておけよ」とだけ言って立ち去ったり、別件で僕が担任の女性教師と話していた時に「先生が叩かないから生徒になめられるんですよ」とか言い放ったりしたことがありまして。

これはつまり、体罰は暴力を含むため正当な手段としては規定されないので、個々人の勝手な感覚での運用になり、場合によっては救われない人を生み出すということだと思います。

先日有名になったあの事件もこういうケースに当てはまるんじゃないかな、と思います。失職する覚悟で骨を折らなければならない相手は存在しますが、そこまでする社会的意義は無い、別の方法で問題を解決するべきだと思います。(そういえば、その体育教師が担当していた部活で、「上級生が新入生をシメるために部室で小指を折って、結果退部させた」という事件もありました。やったのがレギュラーだったので「練習で折れた」ということになって表沙汰にはならなかったですが、これは先述の『暴力行使の心理的ハードルを下げる』ですね)。

 

さて、体罰受けた側から体罰を容認する発言の多くは、「親子関係や師弟関係の、日常生活や学校生活の中での体罰には愛情があったから」という論調が多いと思いますが、僕が見てきた限りそれは「体罰を受けている瞬間」に愛情を感じたというよりも、体罰の瞬間以外の日常生活や学習指導、部活指導で親や先生が子どもに「充実感」を感じさせることでそれを子どもが「愛情」と認識していたのが実態であると思います。

 

体罰を与えた側からの体罰を容認する発言については、育てる側が暴力(体罰)を必要とする場面を大まかに2つに分けて考えたいと思います。

 

まず、子どもがまだ十分に発達しておらず、欲求のままに走り回ってしまう場合。

この場合は、目を離した隙に危険なことをしようとしたのを戒めようとして、体罰をしてしまうのだと思いますが、それは上記の調査でも効果的でないことがわかっているのですから、別の対策が必要です。

そしてそれは単純に「子どもから目を離さなくてもいいように、見る目を増やす」というのが解答だと思います。最近では、子育てに協力できるような職場に勤めている男性や祖父母がいる人から結婚していく傾向があるかと思いますけど、一人で子育てしないというのは大事なことだと思います。これはさまざまな障害やがある場合も同様です。家族で対応しきれないものは福祉で対応していくべきだと思います。

 

次に、子どもが十分に発達し、口頭で注意すれば理解できる場合です。ここでは、相手の理解力を前提とした「言葉の暴力」も問題として含めます。

この場合、体罰する側は「対象者に肉体的痛みによるトラウマを植え付け、致命的な事故を恐怖し回避させることが犬や猫にも通用する動物全般に効果的なしつけである」ことと、「実行者に、心配した瞬間の不安や怒りのストレスを解消する」この二つの効果を期待しているのかと思います。

ストレスを解消するために叱るというのは、人は怒りを我慢すると仕事の効率が60~70%くらいに低下するが、怒りを叱責などで放出した後は90~100%に仕事の効率が回復する…という話を読んだことがあります(昔の記憶なので出典を示せないのが恐縮ですが)。当人にとっては諭すよりも叱る方が楽だし得なのです。

しかし、叱られる側のデータもあります。

「他人が暴言を吐かれるのを目撃しただけの人でも、処理能力が25%、創造性が45%下がる」

http://jp.wsj.com/articles/SB12408226390103943756704582455700160087784

横で叱られるのを聞いているだけでもこれだけの悪影響があるということです。

ただ、横で暴力や叱責を聞くストレスを回避する簡単な方法があります。それは叱っている側の味方をすることです。自分も一緒に叱ったり叩いたりする側に回ることで、ストレスをかなり軽減できます。

そうして暴力や暴言を容認する環境は心理的に簡単に形成されます。

いじめとかでも多数の生徒から「いじめられる子も悪い」という言葉が出てくるのも同様の心理だと思います。いじめられている子を見るのはストレスですが、いじめられている子が悪いことにすればかなりの自分のストレスを軽減できるのです。

 

というように、ストレス環境下では体罰やいじめが容認されやすくなるというのを考えると、体罰が軍隊起源であるという説(例えば、「棒で殴る体罰」のは旧日本軍の精神注入棒が起源である、とか)は、体罰を容認する家庭や学校環境がかっての軍隊のようなストレス環境下であるのかもしれないなぁ、と思うわけです。

現代の西洋の軍隊は、このようなストレスが作戦の成功率を下げるという認識に立ち、いろいろと「ストレスを感じないように訓練する」らしいのですが、まぁ、それはおいときます。

 

ところで、しつけについて過去の農村社会に範を求めると、小さい子どもの面倒は農作業に出ている両親では見ることができないので、農作業ができない高齢者や低年齢者で大勢で見守るなど、基本的には「多人数での対処」が基本になっていたことを見つけることができます。逆に、日本の家庭や学校は、予算不足による担い手不足がストレスとなり、それを体罰という暴力で解決しようとしているということだと思います。

ですので、結局は、子育て分野や教育分野への社会の支出のバランスを取り戻す、という話になるのだろうと思います。なぜそれが崩れているのかというと、地域社会の助け合いで奉仕的な労働として支出されていた時間の支出が地域社会の弱体化で機能しなくなったためだと思います。その地域社会の弱体化は、その分、会社が労働力として吸い上げた結果でしょう(これは、育休とかの考えも同じと思います)。

 

…と、ここまで書いといて、自分は虐待とか体罰という言葉を利用して自分自身の問題を塗り込めた何かを無理矢理書こうとしているから苦しんでいるのだと気付いたので、変に藻書き苦しむのは止めることにしました。