体罰の話

はてな記法忘れた(挨拶)

体罰の話。

日本人は「察する⇔察してもらう」という受動的なコミュニケーションが好きだと思います。
欧米人にも「察する」はあると思いますが、公の場では「主張する」ことを礼儀としているような気がします。

「察する」が標準化した世界というのは、つまり言葉で表現することが少なくても済みますので、言葉で表現するのが苦手でも結果さえ出れば高い職位が与えられることになるのだと思います。
指導的な職務が付随するのが高い職位であると現在は考えられていますので、言葉で表現するのが苦手な人でも指導的な職位へと至り、指導を求められます。
しかし、その下には未熟な者が付けられることになりますが、その指導者と同じくらい優秀な人材ならば察して付いて行くことができるでしょう。しかし、その指導者は、他の人よりも優れて察することができたから昇進することができたのであって、他の人は彼ほど察することができないでしょう。
よって、指導者は察することができない人には説明をしなければなりません。

中には説明をできる人もいるでしょう。しかし、そのような昇進をした人すべてが説明をできるわけではなく、言葉での表現不足を補うために何らかの方法で強制をしなければならなくなるのだと思います。

察するというのは、直感すると言い換えてもいいのかもしれません。

直感を構成するのは経験だと思います。優秀な人というのは、少ない体験の中からでも濃密な意味・経験を獲得する才能があり、その直感を形成するまでに至るのだと思います。
その才能に欠く人は、少ない体験ではなく大量の体験で補う方法がひとつあります。しかし、時間が掛かることですし、まだ意味を見出すことができていないことに時間を掛けるのは苦しいものですので、長続きしません。
そこで、長続きさせるためにより強い苦しさである体罰をぶつけて、比較的軽い苦しさである「理解なき努力」の選択を強要する、というのが体罰の図式と思います。

もうひとつ、才能を欠く人が取る方法として、少ない経験のままで、才能ある人が直感で実行している方法を理論的に模倣する、というものがあります。これはつまり、努力の意味を理論的に理解する「理解ある努力」であす。
たとえば、身体能力に優れた相手に勝つために倍の練習を積むとして、その意味を理解すれば苦しみは減るでしょう。
その意味を理解せずに行えば苦しいことの方が多いでしょう。

ところで、その意味を理解しようと理解しまいと、単純な努力のみでも素質に優れた者を上回ることは可能なケースは往々にしてあります。そうなった時に、「意味はわからなかったけど、体罰によって強制された努力の結果として良い成績を達成することができた」という状況は出現しえます。ここに体罰の肯定ははびこりやすいのだと思います。

しかし、スポーツというのは単純な身体能力のみで勝敗が決着する時代は終わり、分析と戦術理解のウェイトが大きくなり続けていると思います。
トレーニング理論も進歩していますし、チーム競技であればあるほど体力面で差をつけて勝利することは難しくなっているということです。
これまでの「指導力」は、「強制力」に大きなウェイトを占められていたのですが、それが本当に指導することが重要になってきているのだと思います。


ところで、何故死に至ったかについてですが、これは組織が閉鎖的だからだと思います。指導に納得がいかずに別の指導を受けに行くことが死ぬことよりも気軽にできるのならば、その選択肢を選べたでしょうけれど……。
日本の多くの組織が、この強制的な指導法をとるために閉鎖的な組織を形成し、「組織から逃げた者はこの強制的な指導に従わない者」=「この指導法では成長しない者」ということで評価を落とすという暗黙知を相互に形成してしまっていると思います。
それが「辞めないで我慢するのが常識」という強制力を持ち、人々を縛っているのだと思います。そして、それを制度が肯定していると思います。転校の手続きは面倒ですし、受け入れ体制は整っていません。社会人の労働関係法もそうだと思います。
法というのは常識を肯定するために設置され、議論は新たな常識を形成するために必要なのです。

この閉鎖性を脱するための議論を積み重ねることが必要だと思いますし、そのために時間をしっかりと確保することが重要です。
ところで議論とは、相互の意見を出し尽くした後で、どちらもが引いて容認できるポイントを共有することが決着だと思います。この文章もただの意見だと思います。

流動的な組織を維持するには、優れた経営理論が必要だと思います。
そして、優れた経営理論が存在しない状況ならば、固定的な組織を運用する方が社会全体では安定していたのであろうと思います。しかし時代は進んでいますし、国同士の競争の中でその優れた道を採らないことは致命的なのではないかと思います。


以上をまとめますと、組織が閉鎖的だから体罰が有効となり、体罰によって日本の中では成功例を収められるので日本の中では無くならないが、それは世界標準ではないのでこれから苦しい袋小路に追い詰められるんではないでしょうか?ということだと思います。


さて、AKB48さんの話になるのですが、外野から見ていて彼女たちは、コアなファンを狙ったサービスでカルト的な人気で盛り上がり、そこからキャッチーな部分で一般層を取り込んだのだという経緯の果てに、その組織の中で図抜けたアピールポイントがあるのだからそれを活かして独立しようという人というか独立させようという事務所の思惑がちらほら出てきて、そこに恋愛禁止というのを逆手に取ることもあったりなかったりするのだろうと思います。
実際のところはわかりません。
大事なのは、これが犯罪であるのか、ビジネスであるのか、です。
髪を切るというのは強要すれば傷害罪だったと思いますので。

多分、髪を切られた彼女が訴えれば、犯罪になると思います。しかし、訴えなければ警察は踏み込まないと思います。ビジネスかもしれないからです。
これは被害が「髪を切る」というものなので、個人によって受け取り方……精神的ダメージが大きく異るものであるため判断が簡単ではないということだと思います。
同様に、言葉の暴力についても同じ事が言えます。個々人によって受け取り方が異なるために、どの程度であればそれが犯罪なのかということを一概に決定することが難しいと思います。
そもそも、警察の人的資源も有限ですし、一から十まで警察が関与することは困難でしょう。
そういう実務的な限界の中に、いじめや体罰の問題もあると思います。

そうやって取り締まられないのであれば、我慢するということはやはり当人にとっての利得になりえるわけです。
ですので、再度繰り返すことになるのですが、これを避けるには流動性とその流動性へのセーフティネットが必要なのだろうと思います。
それは、困っている人に面談して相談にのってあげることであったり、解決法を教えてあげることであったり、距離をおいて理解する時間をつくったり、そういうたぐいのものであると思います。
本当に仕事が楽しく、そこで自尊感情が満たされていれば、恋愛にうつつを抜かすことは無いわけです、でも、恋愛というのは相互に自尊感情を満たす行為であるので簡単にあらゆるものに優先してしまいます。
それは仕方ないことだと思うんですよね。
でも、ある程度自分の才能と照らし合わせて相応の仕事に満足しなければいけない、ということも世の中にはあって、それが絶対的に恋愛に勝てないってことはかなり当たり前のことなんだと思います。
人間って自尊感情を満たすために存在しているのだろうと思うからです。
才能と照らし合わせて相応の仕事に満足するというのは、自身の中に想定する満たしたい自尊感情の器を小さくするという意味です。身の程を知るということも、満足のうち。それを納得させるのは、他の人が教え諭してくれる言葉であったりもするのです。
ほめるしかるというのは、そういう自尊感情の器の補正だと思うんですけどね。
体罰自尊感情の器を一旦壊すものだと思います。壊れて戻るものもあれば戻らないものもある。
だったら、僕はほめるしかるで補正するほうが、人が生き残る可能性は高いと思います。

その意味で、この件は教育の敗北であるとは思いますが、人間に常勝はありえないことですので、ありうべき事態への措置ということで生徒への出席停止はそれ自体が教育行為であるという意味で仕組みとして存在して良いと思うのです。ただし、出席停止した際に、それに相応しい大人の指導を受けられること、というのが条件です。例えば、校長室で授業を受けるとか、OB教員の指導を受けるとかね。停学とかが教育になってないのは、単なるお休みになってしまっている点だと思います。
http://b.hatena.ne.jp/entry/www.asahi.com/national/update/0202/TKY201302020238.html

峯岸さんも、その周囲の人達も、もっといろんな先輩のアドバイスとか受けられたら良かったんじゃないのかな、と思います。
なんか、ファンもろとも尖鋭化の一途をたどっているように見えます。