中の人などいない!/ヒトトナリ
僕の頭の中に住んでいるキャラクターがいます。
それらは人格ではなくて、自動的なルーティンです。
名前はありません。
たとえば、以下の画像です。
彼女は、僕の調子が悪い時に右後方から現れて、僕の心の中の右腕を掴みあげて出刃包丁で切り落として犀の目に切り刻み、その肉片を口から火を噴いてこんがり焼いて食べます。
それは、時計台のからくり人形のようなもので、機械的にそれを行うだけです。
僕は切り落とされた右腕を幻視し、血の滴る切断面から新しい腕が生えてくるのを見守ります。
彼女は、肉を食べ終わったら消えます。
どちらかというと、彼女は次女です。
話を続けます。
次の画像です。
右側の彼女が目立ちますけど、彼女は言うなれば三女です。このブログの看板娘でもあります。
一番左側が僕です。というより、一番左側が僕である時間が一番長いです。
その隣で、次女相当の彼女が肉を食べています。
滴る血が延びて、左腕が無い男につながっていますが、彼はおおよそ次男に近い何かです。
その次男に近い何かが掴んでいるのは、「お仕事処理マッシーン」となった僕です。
僕は、疲れてくると何も考えずに仕事を処理するマシーンになります。
でも、仮に次男と呼ぶことにする俺はお仕事マッシーンな自分を大嫌いなので、頭をぐちゃぐちゃに殴り潰して殺します。空想の中で。
何度も何度も頭を叩き潰します。頬骨が陥没して、前歯が折れて、額が割れて、脳が潰れて、髄液が飛び出します。その時、左手の血で出来た鎖を、長男相応であるところの僕と長女相応であるところの私が引っ張って阻止しようとします。だいたい、「お仕事処理するマッシーン」になるくらい疲れている時は阻止できません。本当に疲れている時は阻止しようという気力すらありません。
だいたい右手が折れるくらい叩き潰すまで妄想したら、すっきりするので次男相当のヤツは消えます。
つまり、次男次女みたいな連中というのは私の中の攻撃性というヤツで、それをこのようにキャラクタとして内なる自分の世界の中で外部化することによって、抑制しようとしているのだと思われます。
また、これらの妄想の中で、私の中で、右腕が攻撃性、左腕が抑止という役割を得ていることが分かります。
三女、ですけど、これは冷静さを司っていて、常にこれらの4つから距離をおき、大抵の場合座っていて、本を読んでいます。これは、本を読んでいる時の安らぎ平和である様子と、知的で尊敬される存在である自分を象徴しています。いつも右後方に居ます。
昔は、左目の下に「Please kill me」と水性ペンで書いていて、涙を流すとそれが滲んで「Please kiss me」になっていたのですが、最近は殺されたりするのを諦めたようで、すっかり平和なものです。その分、ちょっと距離が遠くなりました。
というのは、三女は元々はもっと魔王エンジェルの三条ともみさんみたいな癖っ毛のないショートヘアの美人さんで、僕の中の女性の理想像という位置づけだったのです。それが、外部にともみさんが現れたことで、「著作権的にアウト!」ってのと、「この似姿は不可侵すぎる」っていう自粛によって、より自分の分身としての性格が大きくなり、結果、死ににくくなったのだと思います。
逆に言うと、僕の女性の理想像の中に死にたがりの女性というのがあるということです。というか、多分、女性と付き合ったら冗談で首を絞めたくなると思う。できなくて僕は泣くけど。うん、泣く所まで想像できる。というのは、「Please kill me」が涙によって滲んで「Please kiss me」になるというのは、そういう意味に他ならない。
僕が女性と距離を置いちゃうのは、そういう自分を気持ち悪いと思うからで、そういう自分を出せる相手なんていうのは、まぁまずまともな探し方では見つからないと思うからです。
っていうか、そういう人を見つけたいんならガチで自分そのものを切り売りするレベルの創作物を仕上げて、どどーんと打ち上げてそれを見てもらうしか無い。
話が逸れましたけど、そうやって三条ともみさんと差別化を図る過程で、僕に近い存在として眼鏡を掛けて癖っ毛になりました。この辺、下手に書くと佐野美心さんになってしまうのが難しいです。違います。全然違います。
んで、ここに描かれていないキャラクタたちの話。
僕の背後には、長女が居ます。っていうか、一人称が「私」の時っていうのは、背後にいる感じなんですけど、これは僕のアニマであるとともに母の像ですね。僕を保護し、生存を助けます。現実の母はセミロングですけど、これはストレートのロングヘアです。癖っ毛ないです。僕にとっても姉みたいな存在です。
この長女の歴史は古くて、体重が軽くてちっこくて「いいなー、体重軽くて、まつげも長いし女の子だったらよかったのにねー」って言われてた時に、それは男として辛い要素だったので、「もし女に生まれていたらもっと楽に暮らせてたのかな?」という願望に近い思いを抱いていたことに萌芽があると思います。
小学3年生くらいの時に夢の中で女性アイドルになる夢を見たことがあるし。
その頃、ちょっとイヤなあだ名を付けられていて学校でからかわれていたので、それから逃避しようとしたんですね、きっと。小学4年生になってその嫌がらせはなくなって、その願望は再度小さくなっていたんですけれど、中学1年で無視されることによって形を変えて再発した結果がこれかもしれない。
イマジナリーフレンドに近いのかもしれない。
あと、この姉的存在ってのは、妹のためでもあったりします。僕が姉だったら妹の相談にもっと乗ってやれたかな……というちょっとした願望も含まれています。
ここまで書くと解離性同一性障害、いわゆる多重人格みたいだけど、それは違っていて、記憶の断絶が無く、それぞれに固有の記憶が無い。
故に、自分の振る舞いを、その場の状況によって有利なように変える演技性人格障害の傾向が強い、と私は考えています。
あ、「私」という一人称についてですが、レベルによって2つの「私」があります。
僕の中で最も古い一人称は「良平」です。父母にそう呼ばれていたから。そして、そこに弟の誕生によって「お兄ちゃん」という一人称が加わります。というか、この弟の誕生の時に僕という自我が生まれたと思っています。
母に「弟ができて、お兄ちゃんになるのよ」と言われた時に、父母と一体の家族の状態から父母のもとに同室の存在である弟が現れることで僕という人格が父母から切り離されたんだと思います。だから、「お兄ちゃん」という一人称と「僕」という一人称の成立はほぼ同時期であったと思います。
弟が生まれた時には、僕は兄なんだ、という気持ちがあったように記憶しています。「わかる?」って聞かれたので。
……うーん、気がするだけかもしれないですけど。なにぶん、2歳の頃のことなので。
さて、そうして「良平」「お兄ちゃん」「僕」という一人称がしばらく続くわけですが、僕は父を見ていて父が外で仕事をしている時は「私」という一人称を使用していることに気が付きます。これが幼稚園入園後のことだったので、僕は家庭と幼稚園以外の場所は「いつもと違って丁寧にしゃべらないといけない場所」なので「私」を使わなければいけないのだと学習しました。
なので、小学校に入学した時に、「ここはお家じゃなくて幼稚園じゃない『外』なので、私を使わないといけない」と思い込み、自己紹介で「私の名前は~」と自己紹介をしたので、しばらく「女!女!」と馬鹿にされました。
先生に「私って言わなくていいのよ」って言われるまで使っていたのもありましたが。
というわけで、元来僕の中で「私」というのは必ずしも女性性とは結びつかない概念であり、パブリックな存在として確かな地位を持っています。それは中性的で、僕があるべき理想像でもあります。なぜなら、僕が父親を尊敬している時期に、父親から真似して使うようになった一人称だからです。
回りくどい書き方になりましたけど、僕の中にもう一つ、「私」を一人称として使う理想像があって、よって、一番調子が良い時には、その「私」になります。これは、今はほとんど調子が良い時は無いですけど、本当にお兄さんみたいな感じでしっかりしてます、割と。完璧では無いですけど、僕の機能をフル活用できます。
イメージ的には、三女の向こうに居ます。めっちゃ遠いです。
そんな感じです。
そして、「僕」ですけど、ここのところ、その調子のいい私とすごく遠い状態というか、その調子のいい私に近い状態の僕が死んでしまった感じで、つまり、現状の僕というのは三男に近いものだった感じがします。
それは、精神年齢的に中学生のまま停滞していると言う意味で、古い存在なのですが、三男相当の存在ということです。
次男相当の存在は、その無視されていた時に憎悪から生まれたものなので、後から生まれて、後から生まれた故に年上です。
さっき、記憶の断絶は無いって書きましたけど、物事の見え方はかなり違います。
説明は難しいですが、なんていうか、僕はのほほんとしています。私は、しっかり捉えようとします。
俺とかは破滅的です。なので物事をぶっちゃけます。悪い方に取ります。
長男的な僕は、謙虚ですけど、まぁ、僕みたいにあやふやではないです。
さっき、理想像って表現してた私は、父みたいな捉え方をします。
なんというか、記憶が頭の中に浮かんでいるんだけれども、それに対する近さがそれぞれに違っていて、アクセス速度が異なる、というような感じです。
それらの見方の違いを、時と場合によって切り替えて事態に対処するのが、「総体としての私」のあり方です。
なんか卑怯くさいですけどね。
まぁ、外からはそんな切り替えとか解んないんで。
つーか、僕としてもいつの間にか物事の見え方が切り替わってるんで、戸惑うんですけどw
実際こうやって書きながらちょこちょこ切り替わってるし。
アクセスの得手不得手があるので、微妙に言葉遣いが違ったりします。と自分では思ってます。
この辺の「切り替え」ってやつは逃避ですよねー。自分でも良くないとは思うんですけど……。
ていうか、嫌になります。ハイ。ごめんなさい。
そうだね。
これゴメンナサイモードであかんヤツや。
(20分後)
えっと……。
この辺の分裂具合に気がついたのは、高校生の頃で、なんというか、筆跡とかもろもろの「好み」が気分によって違うなー、と思い始めて、それで、『24人のビリー・ミリガン』を読んだり、当時はあんまり多くなかったその辺の情報を取扱った書籍を読んで、ああ、自分は別に多重人格ではないな、と思ったわけです。
今考えると、厨二病ですよね。
まぁ、なんと言いますか。
治ってねぇのかよ!なのですけど。
ただ、自分は分裂症のケがあるぞ、と警戒心を抱いて、監視するように設定をしたのもこの頃です。
この辺は、「ここ1年について/anual」に書いたルールの話ですね。
そういうわけでして、ここに一旦書きだして整理してみた次第です。ハイ。
ってか、今、「一旦」に「逝ったん」って変換候補が出てきて噴いたんですwww
……えー、なんかホント、どうやって治すんだろコレ。
つまりさ、この中のどれが一番私らしいんだろーね、ってコトね。
うむむ……。一番根っこにあるのは「私」なんだろうけど、あれって維持できないし、一番時間多い僕はヘタレだし、かといって果断というより蛮勇な俺では駄目だし、私系列はダメダメダメちゃんだし、つまり、ヘタレを中心にしてなんとかやってくしかないわけよ。現実の所。
なんか選ぶとかそんな選択の余地は無くて、そして、実際の所、こういう表面上の振る舞いの枝葉を取り立ててもしかたなくて、ほとんど中身は僕なんだよなー、っていう話。
……うん、でも、この考え方って今のこの瞬間の僕の考えでしか無いわけなんだよね。
朝起きたらまたちょっと違ってしまってる。
うごご……私とは一体……。
うえっへっへ。
はぁ……。どうしたもんかなー。
(※なんか多分、ここまで全部フィクション。つまり、ショートストーリィってヤツっすよ!)
(追記)
後半は単に疲れてダレてるだけじゃねーかwww
まぁ、以前も同じような記事を書いているから、比較するエントリも面白いかもね。