東京と政官/侏儒雑観

東京という街の規模が適性かどうかについては、多面的な評価が必要だと思う。集住によるエネルギー効率の向上とか競争の激化による各分野での高度化とかはプラスだろう。でも、そもそも東京が何故巨大足りえるのかを考えて源流に目を向けると、そこには巨大な官というものがあるのだと思うわけです。

今は民主党政権なので連結器の交換がうまくいってないけど、自民党政権からの伝統は政と官が相互の利益を取引し、実際的には官が大枠を決めて、実利を政で分配する形になっていた(正しくは、逆だと思うんだけど)。なので、民からすると永田町詣でと霞が関詣でってのが有効になってた。

……違うな。自民党政権から、ってのはおかしいな。もっと前からか。近代史には詳しくないけど、戦前からそういう仕組みなのかも。

いずれにせよ、東京に限らず集まった税金をどう使うかの意思決定の段階で、そういう形の民からの参画が認識されていて、東京は国税を扱うという意味で旨味が大きいということ。

それは、必ずしも税金が東京に降りてくるから東京に居を構えるってわけじゃなくて、干渉するコミュニケーションを密に取り、干渉を観察するために東京に居を構えるっていう間接的な形になる。今や最も価値を持つものは情報だし、それが出し抜くために必要だから。遠隔では出来ない交渉もあるし。

そして、そうして集まってきた人々と、元々先行して進んでいた生産基盤に対して増加してきていた人々とに対して、規模の効率化が働いた、ということ。

そして、今まさに、政権交代と未曾有の震災によってそのシステムの問題点が明るみに出たわけです。

主に原発ですね。

いろいろ利権とか言われてますけど、僕が問題にしたいのはそこではなくて、問題解決のための意思決定の不透明さや、損害を小さく見積もりたいという思惑で問題を歌唱評価するバイアスが掛かってる点です。

そこをしっかりと監視しようとすると、どうしても今の政官の仕組みではやっていけない。

そうすると、政官と民の関わり方も変わらざるを得ない。

そういうことだと思います。

とりあえず、今日はここまで。またいつか。