夏目漱石『虞美人草』新潮文庫/読書感想

良い作品でした。

東京帝大を辞して朝日新聞で始めた漱石の最初の作品ということで、描写に篭る気迫……もとい知識が凄まじい。

はっきり言って、ちょっと頭が固まるレベル。

疲れているときは全然文章が入ってこないので、帰りの電車だけでは2ヶ月かかってしまった。

うーん、これまで読んだ中で漢語の密度が一番高い。

描写の完成度は一番なんじゃなかろうか?

あと、この作品の特徴はシェイクスピアを意識しているということ。

登場する男女の登場人物の関係性の絡まり合い、場面を変えながら状況が収束していく展開なんか特にそうですし、作中でもシェイクスピアの名と「ハムレット的」という言い回しが登場します。

あらすじは新潮文庫のものを借りますかね……。

大学卒業のとき恩賜の銀時計を貰ったほどの秀才小野。彼の心は、傲慢で虚栄心の強い美しい女性藤尾と、古風で物静かな恩師の娘小夜子との間で激しく揺れ動く。彼は、貧しさからぬけ出すために、いったんは小夜子との縁談を断るが……。やがて小野の抱いた打算は、藤尾を悲劇に導く。東京帝大講師をやめて朝日新聞に入社し、職業的作家になる道を選んだ夏目漱石の最初の作品

……そうじゃねーだろ!

『三四郎』とか『それから』じゃないんだから!漱石作品ってそういうの多いけど、これはちょっと違うと思う。

ていうか、コレ、ネタバレひどくね?まあ、古典のあらすじって結構遠慮無いモンですけどね。

虚栄心って……それを藤尾のみに帰するのは、また乱暴だと思うしさ……。

……では、改めて。

ーあらすじ

大学卒業時に恩賜の銀時計を賜るほどの秀才小野は、詩人を志す有望な若者。彼が足繁く通う富貴の甲野家の藤尾は、美貌と教養を兼ね備えた自我の強い女性である。藤尾の兄・欽吾は、父の客死によって甲野の家督を継ぐこととなったが、それを是とせず煩悶している。欽吾の友人・宗近一はそんな彼を気分転換の京都旅行に誘うさっぱりとした男だが、許嫁も同然の藤尾に接近する小野に気がつかない。そして、小野の恩師が娘・小夜子と小野の縁談を進めるべく上京する……

こんなとこかな。長くて新潮文庫のあらすじ欄には収まらないけど。収まらないなりに糸子の紹介もねじ込みたいけど、ちょっと流れが悪いからなぁ。難しい。

糸子の存在って結構おもしろいと思いますよ。

というか、女性三人の存在は本当に面白い。

古風な女性像の小夜子、男性に負けない教養と美貌で男性を支配しようとする藤尾、一歩引いて古風な位置を保ちつつも芯のある糸子。

女性の描き方が細やかでいいですね。

一方の男性陣は、悩んだり、発想が卑しかったり、考えが浅すぎたりと頼りないんですけど、それって当時の若者像そのままだと推察されるんですよね。これもまた面白い。

ただ、結末がなぁ。

デウス・エクス・マキナじゃあるまいし……。

まあ、事情としては、当時の社会常識からしてシェイクスピア的には描き得なかった、ということですかね。

ええと、以下、続きでネタバレを。

シェイクスピアは、悲劇も喜劇も両方いいんですけど、一応、この作品は悲劇的集結なのかな?

シェイクスピア的には悲劇は、道徳的枠組みからの逸脱によるものという面が強い。

しかし、作中で逸脱したのは実は小野さんだけなんですよ。そしてそれもすぐに悔い改めている。

ホント小野はヘタレだな。道徳的悪役を貫くことすらできないとは、藤尾に申し訳ないと思わんのかコイツ。

小野がヘタレたので藤尾が一身に不義の罰を背負い込んで死ぬことになってしまった。

まあ、こいつはそれでいいや。このヘタレっぷりは、知能以外まるで俺そっくり。

さて、そうではなくて。

違うんです。本当の悲劇は、藤尾がしぶとく生きててこそ起きると思うのです。

藤尾がこういう死に方をすると、その後の展開は、小野さんはそのまま"真面目になって"小夜子と結婚して、藤尾が死んだということで欽吾が出家して、糸子も出家して、宗近さんは洋行。おしまい。つまんない。

あ、何故出家するかというと、当時で長男が家督を継ぐのを避けるにはそれくらいしか手段がないはずだからです。つうか、だからこそ寺関係の描写が頻出しているハズですよ。解説ないけど。

閑話休題

さて、この結末は、小野さんは心から望まぬ結婚であるし、小夜子も一点の曇りもなくとは行かないし、欽吾は煮え切らないし、糸子は報われない。

そういう種類の悲劇なんだけれども、それが明示されないというのは悲劇としての重みが足りない。

ここで、藤尾が小野にしがみつき、拒否され、宗近にすがり、拒否されれば、道徳は終局的に崩壊します。

更にさらに、小夜子が小野の変心を拒否したりしたらもう大変なことになる。

そこでの糸子も大変だと思いますよ。藤尾はそれなりに旧来の価値観でぎりぎり許されうる範囲で、高慢な自尊心を満たすべく動いているわけで、それは謎の女と同質なわけです。でも、糸子はそういう価値観に縛られず、欽吾のことを中心に考えている(父が甲野さんから借りた本を読むのを「恋愛小説を読んでばかりいる」と喩えたのにはニヤニヤしましたw)。欽吾のために謎の女と対決したシーン、あれを藤尾に対してやったらどうなるか?いつぞやの針子仕事をしていた時とは対照的なシーンになったんじゃないかと思うんだよなぁ。

そんなカタストロフィを解決しうるとすれば、それはシェイクスピア的には懊悩の底にあった欽吾の告白しかないわけです。作中では、藤尾の死後に謎の女に対してそうしたように。

それが、糸子を落ち着かせるし、落ち着いた糸子は多分、小夜子を救うことができると思います。

藤尾はやっぱり死を選ばざるを得ませんが、そこは自死でいいんじゃないかな?女性が自死というのも言語道断だから。

小野さんはこのスキャンダルから逃げるように英国にでも留学されて、それから教師にでもなればいい。

そうなれば宗近さんの役割というのは結局のところ、物語を終局に持っていく狂言回しに収まるわけです。

……まあ、職業作家デビュー作でここまでぶちまけてしまったら、空前絶後の大騒ぎになったでしょうけど。

そこまでのリスクは負えんよなぁ。

という感想じゃなくて妄想でした。