『魔法少女まどかマギカ』/アニメ感想

久しぶりに単独で感想書きたくなるような「語りたくなるアニメ」だったな~。

スタッフいい仕事でした。GJ!

簡単な紹介を。

魔法少女まどかマギカ』はシャフトの制作による、オリジナルアニメ。つまり、原作漫画や原作小説を持たないってこと。

監督は2004年に『魔法少女リリカルなのは』を送り出した新房昭之。またも「魔法少女」という概念を全力全壊するのか?

脚本には、ニトロプラスという成人をターゲットにしたゲーム会社で、ダークな作風をウリにしている虚淵玄を迎え、ころころした愛らしい絵に定評があるキャラクターデザイン担当・蒼樹うめというショートケーキには、泥のようなコーヒーをぶっかけに当たる組み合わせと言えるだろう。

さらに、劇団イヌカレーによる素敵カオスアートが、戦闘場面などを華麗にデコレート。

続いて、「魔法少女」という主題について。

アニメとしては、『魔法使いサリー』に遡るべきなのかもしれないけれど、「願い事を叶えて変身する」というモチーフとしては、もっともっと古く遡ることはできるだろう。『シンデレラ』だって魔法によって姿を変えて夢のような物語を成就する話だ。

その変身の形が、お姫様ではなく「魔法使い」の方にシフトしたというのは、『奥様は魔女』もそうなんだけれども、物質文明への潜在的危惧と宗教的禁忌の希薄化の結果なのかな?

ま、とにかく、願望を託して自己実現の代償とする……というか、補助的なステップーー小階段とするのは、物語が人格形成に果たす役割としては一般的なもので、少年の「スーパーヒーロー」と同じようなもの、だろう。

ただ、この「魔法少女」という主題を観賞するのは、いつしか少女だけではなくなっていったわけだけれど、そこが崩れたのは僕が生まれる前だそうなので、詳しく語ることはできない。つまり、30年以上前ってこと。

そこから、多様な変化があったわけだけど、それでも「魔法少女」アニメは夕方の時間帯にあって、少女向けという体を保っていた。

そこを割り切ったのが、『魔法少女リリカルなのは』だった。というのが、僕の理解。

魔法少女」を冠して深夜帯の大人のみを狙って視聴者層として放送するという確信。少なくとも、「タイトルに盛り込んだ」っていうのは、一歩踏み込んだ表現だと思う。どこかで読んだ記事では、『ソウルテイカー』のスピンオフがきっかけだったとか何とか……。

そして、キセキやフシギが主成分だった魔法少女のトラブルと一線を劃し、ビーム兵器的描写を持ち込み、地形が変わるなどの物理的被害の描写によって、少年的バトル要素を盛り込んだ。『美少女戦士セーラームーン』だってけっこう格闘戦とかやってたけど、さすがに地形は変わんなかったよなぁ、多分。全部見てないからわからんけど。(……あ、「美少女戦士」ってのも、踏み込んでるんか。女性の「戦う姿」っていうのを、タイトルに取り込んだ形。うーん、何か『美少女仮面ポワトリン』(特撮)も戦っていたような……wikipediaを見たら、武内直子も影響を語っているのか。時期が近かったから連想しただけだったけど、間違ってないんだな)

まあ、そこからは結構その辺の、少年向けと少女向けでのバトル描写ってのは差がなくなったと言えるんじゃないかな?……あ、今調べたら「プリキュアシリーズ」が始まったのも2004年なのか。俺は、プリキュアについては、セーラームーンから更に踏み込んだ格闘戦描写をしている、という認識しかない。それも、「なのは」とは逆のフィールドで割り切ったということなんだろうな。

……うーん、この異なるフィールドでの同時的変化というのは、社会心理的に面白い事象だけれども、この辺は詳しいブログを見るっきゃないな。子どもがいたら自然とこういう番組をチェックして詳しくなるらしいです。

何か、その前後に「少女」のイメージが変わるような何かが進行してたのかな……。違うか。「女性像」が変化しているんだな。

ま、その辺の「少女向けアニメ」と「少女と大人向けアニメ」と「大人向け少女アニメ」の変遷については、多分いろんな人が評論を書いているんじゃないかな?(「父母は見ることを認めているが内容に興味を持たないし、制作側も強く意識しない」→「父母も一緒に見て、一緒に楽しむし、制作側もそれを意識して大人も楽しめる内容を志向している」→「」……途中まで考えたけど「大人の定義」の問題になるからやめとこう。)

前置きが長くなったけど、『魔法少女まどかマギカ』はその三段目、「大人向け魔法少女アニメ」として、大きな話題をさらうことになったわけです。

ネタバレせずに設定を説明するのは難しいので、序盤の流れで行くと……。

魔法的生物がやってきて、少女を魔法少女へと勧誘する。魔法少女になると人を救える(自己実現できる)と言う。

ここまではテンプレ通り。

しかし、魔法少女になろうとする主人公を止めようとする魔法少女が現れる。そして、物語の序盤でかなり残酷に先輩の魔法少女が死ぬ。

ここで導入部分が終わり、物語は本格的に変質し始める……。

……というように、「魔法少女」と名乗ってはいるけれど、「魔法少女」の持つ物語のテンプレートの一つである「死者の発生」などをどんどん踏み越えて行くわけです。全く死が語られなかったわけではないが、積極的に語ったのが異質だということ。

あ、そっか。この辺の「魔法少女」という肩書きを踏み越えていくってのは、アニメや小説のような陽性の創作ではなくて、AVやエロゲーなどの陰性の創作の方が先行してたことは容易に想像できるな。陰性の創作ではアンビバレンツというのは、重要な訴求因子になるから。ま

……とはいえ、勿論『魔法少女まどかマギカ』は、一般向けアニメであるので、そういうエロ方向があるわけではなくて、どっちかというとグロ方向なだけで、それもオブラートに包んであるから安心です。

んで、中略して、「魔法少女」というフィールドで、SFがやってきたことをやらかしたという意味で新鮮だったわけです。

SF界でも、美少女イラストを採用した海外翻訳とか出てたりして面食らいますけどねぇ。

うーん、そういう時代か。

未視聴者向けの感想はこんなもんかな?

何かまあ、複合ジャンルってヤツなのかな。

あ、そういや何か、どっかでプリキュアで初めて身内で死者が出ただの何だのというのを見たな。

それに関するブログ評論を見たような……いずみの氏だったか、たまたまご氏だったか……僕の観測範囲はそんなもんなので……。うーん。これも同時的変化なのかも。

「社会が許容する表現範囲」ってヤツ。

話が拡散しているけれど、そういう色んな意味でチャレンジ=変化を試みた作品だった、ってことです。

結末はともかく。

てわけで、ネタバレ開始。

……まあ、正直な話、結末には納得いってないです。ただし、それは好みの問題ってだけで、僕の人生観と相容れなかったってことです。物語としてはきちんと収束していて投げっぱなしなわけではない。

予想してたからなー、僕好みの結末にならないことは。僕はかなり甘い人間だからな。解ってて、やっぱ納得したくない気持ちがある。でも、それは仕方ないよなー。という具合。

設定的には、魔法的生物「キュウべえ」は「感情エネルギー」を人間から収集するために地球にやってきている。

魔法少女」の願いを叶え「希望」をエネルギー化し、それが「絶望」へと転換する過程でエネルギーを回収する。

エネルギーを放出しきった「魔法少女」は“死んでしまう”と教えられ、“生命維持”のために「魔女」が落とすエネルギーを回復させるアイテム「グリーフシード」を求めて「魔女」と戦う。「グリーフシード」は「魔法少女」のエネルギーの源である「ソウルジェム」を浄化し、「穢れ」を吸いきれなくなった「グリーフシード」は「キュウべえ」が食べる。

一見すると単なるエコシステムだが、「魔女」が「魔法少女」の成れの果てであると発覚することで、物語はもう一段階の変貌を遂げる。

キュウべえ」は、「感情エネルギー」を効率良く(彼らは、非情なまでに合理的で、感情がないのだ)集めるために、人間社会全体の発展に寄与することにもやぶさかではない。しかし、「感情エネルギー」を回収するサイクルの歯車である「魔法少女」と「魔女」に対しては、人間が家畜に対してそうであるように大した感慨があるわけではない。

だが、人間は家畜ではなくて、その状況を変えようとする意志を持つことができる。

そして、その願いが果たせないことに哀しみが生じる。やりきれなさ、怒り、不快感、そういった感情が噴出する。視聴者の感情を揺さぶる。

……この辺の設定で、ソウルジェムから魔法エネルギーを放出していて、残ったのが穢れなのに穢れを溜めて、グリーフシードに渡して、それがキュウべえのエネルギーになるっていうのは、何となく納得いかねー気がするんだよね。僕は、魔女がエネルギーを持っていて、ソウルジェムから吸い出すっていうのは、おまけみたいなもんかなー、と補完したけど。ま、この辺はようわからんし、ストーリーには関係ない瑣末なことだからほっとこう。

そして、登場人物の一人、主人公・まどかが契約して魔法少女になることをずっと邪魔してきた魔法少女・ほむらの願いが、また、切ない。

友達を救うために何度でも同じ時間を繰り返す。

一番の友達の死を何度も見届け、そして、それを避けるためにまた、最初に戻る。

重い。重いね。

……なんでこんな重たい賽の河原的ストーリーを少女に背負わせる物語にキャッキャウフフするような人たちが増えちゃったかな(←自分のことを棚に上げてる

それは、きっと多くの人が日常に賽の河原的なものを感じているからですよ、シジュフォス。

なんか、その辺の重さが人気なのかな。

まー、なんかこの辺まではなんとなくそうかな、って予想ができてたところなので、衝撃は無かったかな。

まさか、同士打ちが繰り広げられるとは思わなかったけど。でも、ま、それも驚きには値しない。マミさん3話で死んじゃったくらいだし。顔芸にびっくりしたくらいかな。

そんなすべての因果を最終話でぶっ壊すわけですが……正直、予想が外れてがっかりです。

うーん、神かぁ。神になっちゃうかぁ。スターチャイルドみたいなもんかぁ。僕、ソレ苦手なんだよね。

「宇宙の法則が変わって穢れきったソウルジェムはそのまま消滅するようになった」というのは、面白い。設定厨にとっては、「ルールの変更」ってのは血が沸くもんだね。

でも、俺はやっぱ「誰かが欠けてもたらされる幸せ」ってのは好きじゃない。

「まどか自身が幸せになる」っていう希望を投げ捨てている時点で、「まどかとやり直すというほむらの希望」を投げ捨てちまってると思うんだ俺は。それが納得いかない。なぜなら人間の価値観でしか考えられない人間だから。

俺の予想は、「まどかは契約するけど、ソウルジェムをほむらに託して、ほむらは過去へ戻る。まどかのソウルジェムを使って、別時間軸のまどかが変身。っていうか、これを繰り返して魔法少女を5人揃えてワルプルギスの夜を撃破する」だったんだよね。OPの「ちょっと大人びたまどかが出てくる変身シーン」がベースになってる予想だけど、これだと契約せずに魔法少女になれるし、十分に勝算あるからね。

まあ、確かに肉体無くなったら絶望じゃん!のような気もするけど、「どうして魂の在処なんかにこだわるんだい?」ってことで。ほぼ同一人物ならそれでいいでしょ。別人の魂の中で活き続けるとかよりかよっぽどさ。

既にマミさんとほむらと杏子は魔法少女で、どうしようもない?……まあ、なるべく長生きできるように消費を抑えて、いざとなったら自害ヨロシク。それって現実と変わんないでしょ?

……う、何か「それって虚淵と五十歩百歩」という内なる声が聞こえる。

うーん、でも、責任を一人におっかぶせるのって、それってほむらが望むまどかが望むような結末じゃないんではないかなぁ、と。

さやかは、結局、世の中の主観的な不条理を一身に受け止めてるしさぁ。

なんか、釈然としないんだよな、そういう世界の歪みを許容しちゃうトコロが。

「見つけたぞ!世界の歪みを!俺達が、ガンダムだ!」

というわけで、やっぱ少なくとも、死んでしまわない世界が欲しいと思うのを肯定したいんだ、僕は。

笑って暮らせる世界でいいじゃないか。

でも現実はこういう風に誰かに犠牲を強いてるよね、というお話なのか?

煮えきらねー。

……いや、違う。

笑って暮らせる世界にするために、どういう努力が必要かを提示することこそがリアルのハッピーエンドなのだ。

苦しみを分かち合うことっていうのは、誰か一人を犠牲にするよりもずっと貴いと思う。

それが僕の人生観。

だから、ほむらの初志を投げ捨てたこのエンドは納得いかないし、少年少女を描くジュブナイルの視点からしても、大人にならないまま、教訓を活かさないまま神に逃げ込むってのは承服しかねるもんがある。

それと、「ワルプルギスの夜」の正体にもちょっと拍子抜けした。

魔女の集合体、あるいは魔女とほぼ同等の存在を従者として従える強力な魔女かぁ。先輩魔法少女たちが知っていたということは、「既知の脅威」であった証拠で、そういう可能性はあったわけだけれど、やっぱ僕としては、物語が極力閉じたものであるために「ほむらが魔女化したもの」であって欲しかった。

~魔女図鑑~

ワルプルギスの夜

時計の魔女。その性質は、懐古。過去を取り戻したいと時間を旅していたが、その旅の目的は出発した未来に置き忘れてきてしまったのだ。終着点を失った彼女は、留まることなく過去へと溯り続ける。

……みたいな感じでナ。

目標を見失ったために過去をひたすら遡っていき、先輩魔法少女たちにも知られることになった。ってことで。

同時に、ほむら自身も「時を遡って歴史を変える」という破格の能力を得るに至った理由になるし。

つまり、まどかもほむらも両方が時間軸の因果の糸を束ねる中心であったために、潜在的に高い資質を持つに至った、というね。

そうすることで、同時にほむら自身は自己の因果と戦う運命である、ということが強く印象づけられるし、それを打破するまどかの存在というのも際立つと思ったんだけどね……。

で、出てきた特別なグリーフシードでどーのこーのであーだこーだで、エントロピーの問題解決!とかね。ご都合主義でね。

ていうか、最終話も「安定のさやか」とは思わなかったぜ。ひどいよ……こんなのってないよ……。

まあ、これでも良かった方なのかもしれない。そう思う。最悪なんて考えればもっと沢山あるわけだし。

ああ、すべては円環の理(クライス・プロヴィデンス)の選択のままに。ティロ・フィナーレ

……とか何とかぐだぐだ書いたけど、何のかんのと注文を付けさせてくれる、厳しい視線に堪える良いアニメだったと思います。

映像が本当に良かったな。独特のダークな空気が素晴らしかったし、オクタヴィアとの戦闘シーンは秀逸だった。

蒼空の空虚感、夕暮れの寂寥感、暗闇の絶望感……画面構成、色彩設計が世界観にマッチしていた。

脚本も高い完成度。構成も良いテンポで飽きさせないどころかグイグイと引き込んでいった。

声優の演技もすごかったな。斉藤千和さんはいつもすごいけど、主役の悠木碧さんも良かったな。10話が本当に素晴らしかったです。

……やっぱ良かったよな。納得できない自分がおかしい気がしてきた。きれいにまとまってるしな。

というわけで、いいアニメでした。完。

さて、他の人の感想など漁ってくる。