芸術の存続/侏儒雑観

劇団四季の話です。

プレスリリースを読みました。職場柄。

短期公演の結果次第、ってことになってるみたいだけど、正味な話、どうなんだろうね。

最後の方に、「こういうこと書くと一人でチケットをたくさん買う人が出るだろうけれど、そういうことはやめてほしい」みたいなことが書いてあり、新規の観劇の切望が綴られてた。「初めて見た人でもファンにするだけの自信はあります」みたいなことも書いてあった。ファン層の広がりがないと安定収入を得られないという問題意識が本当に強い。

基礎となるファン層の裾野の広さがなければ、峰は高くならない。高くても不安定になってしまう。

そういうことだろう。

こういう問題意識はいろいろな芸術分野に現れている問題で、単なるパイの問題なんだと思う。実際、芸術に回されるパイは減っていっている。

マンガとかアニメとかもそうだし。

「若者文化」から更新されずにそのまま持ち上がっていっているところがあって、「アラサー」「アラフォー」とか言ってたんだろうけど、それも限界かな、と。

四季は小学生向けの招待とか、なんたらかんたらとかもあったと思うし、頑張ってたと思うけどな。

芸術の定着ってなんなんやろ?と思ってしまう。

映画とかテレビドラマとかも、広い層にうけるって感じがない。

「ターゲットを明確にして売る」ってのは確かに正しい。

でも、特に芸術ってのは「広い層に訴える」ってことが大事だし、それが芸術の力だと思う。

そう考えると芸術を発信する力というのもあるけど、受信する力も衰えているんではないかという危惧がすごい圧迫感を伴って胸に湧き上がる。

ネットで批評を共有する楽しみの可能性がもっと広く拡がったのに、先鋭化することで広範な理解からは遠ざかっていっている、ってのは著しい違和感を覚えると言わざるを得ない。