「想像力の欠如」の問題について

はてなブックマーク > 強姦犯の心理 Uramako事務局/ウェブリブログ に「他人の心を想像する力って他者とのコミュニケーションで培うものだから、その醸成には『それはお前に都合がいい想像だろ』って指摘する親しい人間が必要で、それが難しいよなぁ」というコメントをしました。

そこでのid:rnaさんからコメント

失恋が一つの解なんですけどね、経験的に…

と頂きました。

そういう方もいらっしゃると思います。
コメントの「親しい人間」については、どう表現するか迷いました。
というのは、ここで僕は「その人の言う事を素直に受け止められる人」という意味を持たせたかったからです。
それは、多分、rnaさんの場合のような、恋愛対象の相手そのものでもいいんですよね(いや、相手から直接でなくても、その友人とか、自分の友人とか、いろんなケースがあるんですけど)。
友達でも良い、親でも良い、教師でも良い、その言葉を受け止められる人なら誰でもいいんです。そこに、相手の言葉がそのままを意図するという信頼があれば。自分の意思とは異なるものとしての尊重があれば。
それは、それ以上、踏み込んでは相手にダメージを与えてしまって、それが自分にとっても損害になるようなことがあるのだということを学習できる機会を掴まえたということです。


でも、最初からズレてしまっているような人には、それが一度では難しかったりする。
例えば、相手の言葉を受け止めて同調することを忌まわしく思う人は敢えて無視するから、これが社会の中で生きてく上で利があると思うようになるまで繰り返し機会を捕まえていくしかない。
或いは、通常のコミュニケーションのあり方では相手の言葉をその意味通りに把握することができない人には、その人が理解できるような伝え方を探さなければならない。喩えるなら、人とコンピュータの間にコンパイラが必要なように、心の動きが異なるために「そうされると心が痛いでしょう?」と言っても「痛くはないよ」と言う心の仕組みが違う人がいる。宗教の違いもあるだろう、地域の違いもあるだろう。男女の違いほどではないにしても、個々のに肉体にも違いが存在しているだろう。
または、通常のコミュニケーションのあり方が有効な人でも、環境が通常のコミュニケーションで異常なアクセスを試みることがその人の常識になってしまっていれば、非常識なことをしてしまうだろう。


色々な精神をもって人が生きているけれど、その主観の狭さを指摘して想像力を働かせる方法を教えなければ、想像力は欠けたままになってしまう。


社会的想像力というのは、結果を推測する力を人間に応用したもの。
「樹を揺らすとりんごが落ちる」を想像するには、一度樹を揺らしてみればいい。
「熟れたりんごが落ちる」を想像するには、揺らした樹から落ちたりんごをいくつか食べてみないといけない。
そういう物理的、生理的な現象の推測とは違い、心理はもっと複雑なものになる。
自分の経験と得られる情報を元に構成される心理を、自分とは分離した別個の存在である相手のように振舞わせないといけない。
「自分がしてほしくないことを他人にしてはいけない」というのは、シンプルで分かりやすいですが、それだけではやはり小学生レベルではないか、と思います。してほしくないのは、あくまでも自分であって、その相手ではない。「自分がしてほしいことを、他人にしてあげていい」という行為には、基準が自分しかいないんです。
思春期に自我が発現する様子は、自分と他人が別の存在であると認識し、社会的推測をするようになることが重要だと思うのです。
そのきっかけがなんなのかは人それぞれでしょう。

狭い世界観に生きていると、想像力の有効径も狭くなってしまいます。
だから、社会を広く行き合える人間が、彼らの世界観を拡げてあげなければなりません。

今、そういう狭い世界に生きる人を、広い世界にひっぱりだす時間がすごく不足していると思うんです。
大人も子供も、近い考え方をする塊にしか所属しない。
ところてんのように次のステージへ押し出すだけです。それが楽だから。
結果、心が細っていく。
それで「難しいよなぁ」と書きました。


僕の発散する拙い想像力ではそういう感じです。

すみません。ちょっと近頃曖昧です。