2週間前の話のつづき

ちゃんと書くためには忘れてしまったものを取り戻す資料を探せばいいはずなんだけど、敗北感を思い出して脳が痺れる。
だからここから下にあるのは、専門外の視点に等しい。


「自然となんとかする」ってのは俺が都市計画を3年勉強して思ったことの中でも、今も覚えているひとつのこと。

個々の再開発の事例とかの規模ってのは、人間生活を改良するまでの効果を持たない。
もっと人間の生活を変えるものは、たとえば容積率を郊外から買い取る制度なんかなのだ。
そういう制度を新しく創れる状況じゃない。
都市計画法と景観法が摺り合わせを現場に丸投げした例みたいな、そういう利害に阻害されて踏み込めない、観光カリスマのような民に在る力を借りるような状態。

都市計画法と農業振興法と自然公園法と景観法とそれぞれが縄張り張ってる。
例外のない法はないというけれど、その例外によって都合よく用途を転用する方法と、その取引の政治性。その状況のすべてを俯瞰した時の無秩序な自然性。

だからこそ建築が自由であれる。打ちっ放しのコンクリートや大阪のゴミ処理場のようなアートが成立する。

日本の都市は自由経済に委ねられている。
都から鄙、鄙から都への連続的変化。野山にかりする感覚が境界を曖昧にして、西洋のように区切らせない。コロニーのような距離的なものよりは地形の条件に左右されることが多く、自然に都市が形成されたし、その自然を読み取って都市を普請することが良将の条件であったというような、感覚が都市を自然な流れに委ねようとしている。



東京の過密の問題は、東京人自身がそれを問題視していないからだ。
問題視されるようになれば過密を解決する諸々の事業に金がつき、そして実現されていく。
それは、金を付けられるようになったという意味で、ようやくという印象は拭えない。
そういう意味の「自然と」と。

しかし、結局はそれが完全に予算が付くほど問題意識化される前に、Uターンする先を失った人々が老いてなお住まう土地としての東京へと変わりゆくという意味で、「自然と」なるだろう。

また、天災が来ると大きく変わる可能性がある。一つ所に大切な人財を集めていると一度に失う危険があって、怖い、と覚えれば「自然と」。
天災とは地震はもちろんだが、例えば、メンテナンスに金をかけることを怠った場合に、水害というものもありうるだろう。

自律性がないっていう意味。

僕は僕の現状認識は間違っていると思うから、僕ではない都市計画家たちにこれを否定して欲しい。
というより、否定は始まっているんだな。
地区計画などでボトムアップで計画をつくっていくまちづくりという意識には、国土交通省の道路や橋や川のような線的な事業において面的な考え方を導入するという形で広がっている。
まだ区界や市境・県境を超えることができているところ、できていないところはあるけれども、その連携は始まっている。
そうやって、ヒューマンスケールで町を認識するということの広がりが、やがては都市全体を変えていくだろう。それが東京全体に及ぶまでにこれらの「自然に」が訪れてしまうにしても。