山本譲司『累犯障害者』新潮文庫
とりあえず読了の報告。
これはすごい。
すごく悔しいぞ。
すごく。
こんなことを知らなかったら、これまでの障害者福祉の知識はすべてしったかぶりだ。
頭の中がうわぁあああ!ってなる。
なる。
「文化する」って言葉を考えてしまう。
2.5パーセントを見つけ出す方法が必要だ。
あとで詳しく書きます。
さて、書けるもんかな。
最終章から引用すれば、人類における知的障碍者の出生率は全体の2~3%とされるが、内閣府発行の『障害者白書』に記載される日本全国の知的障害者の数は約46万人でしかなく、それは実に日本の人口の0.36%でしかない。
もちろんこれは「日本人に知的障碍者が生まれにくい」ということではない。というか、そんなに生まれにくさに違いがあるとすれば医学的生物学的研究の対象になるし、マスコミだって取り上げるに決まっている。
取り上げないのはつまり、この差の分だけの社会福祉のコストが潜在していることが恐ろしいからだ。また、2%も障碍者を見かけないことで、私たちが彼らを押し込めていることを自覚するのが恐ろしいからだ。少なくとも、私は恐ろしい。
障害者として認知されていない、400万人近くは健常者として暮らしている。
そして、健常者として裁判を受け、受刑している。
これがいかに不合理なことかを考えると、頭が痛い。
知的障碍者について明確な像を描けますか?
僕は難しい。あまりに出会っていないから。
身体障碍者なら、視覚障碍者なら、聴覚障碍者ならまだ見かけたことがあり、少しは知っていると思える。
しかし、知的障碍者、精神障碍者については、ほとんど知らない。
ある一定の確率で現れる彼らについて、有効な方策を打たないことは、全体に悪影響を及ぼす。
~~~!上手い喩えが出ない。
彼らはノイズじゃない、不良品じゃない、正当な遺伝的試行錯誤の副作用でしかない、というか現代社会において有用と認められづらい例であり、正規分布から言えば平凡の山の向こうには現代社会において有用と認められる2%の例が存在しているはずなんだ。つまり、この2%の例を排除することは現実的でないし、なにより人道的ではない。というか、彼らだってじっくり話せば通じるし、もっと根源的な原始的な感性によって共感を抱くことが出来る人間なんだ。
知的障害者の区分の仕方は本当に難しい。
というよりも、知性とはなんぞや?という話になってくる。
説明すれば分かってもらえて、きちんとやってもらえるはずのことを、きちんと説明できない所謂「知的な人たち」って本当に知的なのかよ?
そうじゃないよな。
なにかできることがあるならやってもらうべきなんだ。
それが彼ら―じゃない―僕らの充足になる。
私たちは干渉しなさ過ぎる。
干渉しないことで、干渉されないことに慣れていく。
どこまで干渉すべきかについて、共感を得られなくなっていく。
確かに、干渉に敏感な人がいるけれど、それも時間をかければちょうどよい波が見つかるはず。
その、心地よい程度の干渉を探る時間を失っている。
時間がないことはこんなにも、僕らにとって良くない。
何事も素早く処理すること、しかし、素早く処理できないものへの対処を無視し、それを擂り潰すことは、結局、そうなるリスクへのコントロールを失うことになる。
その結果がこの刑務所の福祉作業所化だ。
こんな効率悪いことがあるか?
福祉作業所と刑務所では社会参加と社会性回復とで、意味が違うだろうに。
そして、その刑務所に送る作業に警察や司法の優秀な人材を浪費する無駄。
コミュニケーション、足りてない。
彼らを集めて、まとめて不都合を解消して便宜を図る(≠面倒を見るとか世話をするとか)ってのは、確かに効率的だ。彼らはお互いに彼らのペースで生活できる。しかし、それだけではこの書に紹介されている聴覚障害者の殺人例のように、彼らを理解することから私たちを遠ざけてしまう。
それではダメだ。
冒頭に「文化するということ」と書いた。
これは同じ「文」つまり「紋」を記すということだ。化粧みたいなもので所属を示していたという。つまり、この紋を記すことが「文化する」=同じコミュニティに属する証となったという説がある。
どうやって同じ文化を共有するか?それがないと法意識の共有なんてできない。
彼らに障害者という刺青を彫りこむんじゃなくて。
こんなのが良い社会なわけないだろ。
子どもを産もうと思ったら「数%の確率で社会から疎外されます」
そんなのじゃあ、ダメだ。
子どもが高熱を出したら聴覚を失う危険が。
忙しい社会でそんな情報持って子どもをほっぽってる人はどれくらい?
これが安全な社会だっつーのかよ?
なんでこんなに情報を共有できてないんだろう?
知らないことが多過ぎる。
そう思った。