ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った(上・下)』岩波文庫/読書感想

うーむ。読み終わったのは先週の土曜くらい。つまり、8とか7とか。

宗教改革を経て、農業革命があって、産業革命が起きて。

その中で、教会の支配力が低下する代わりに道徳を与える力が弱まってきたのだろう。

それに対して、新しい規範を構築する必要がある、と考えた。

執拗に聖書のオマージュを繰り返すのは、そのためだ。

(つうか、喧嘩の売り方が半端なさすぎ。知悉しているからこその執拗さだよな。「山羊飼い」とかマジキチク)

全体の構成は、旦に目覚めて志し、演台に立つ正午を経て、道化が死ぬ夕方を迎えるまでが一幕。

閉じこもる夜を経て、放浪する日中があり、夕刻から新たな道化を捜し求め、同情の夜を経て、同情を克服した翌朝を迎えたところで終わる。

その後が大いなる正午、と言いたいのだろう。

永劫回帰永遠回帰?の思想というのは、つまりは同じ生を繰り返すことの肯定、という見方がされているみたいだけれど、少し違う視点を述べるとすると、

過去の先人が辿った同じ道であろうともそれを敢えて踏襲して踏み越えることを志し、場合によってはそれが失敗に終わって同じ終わりを迎えるにしても、それを恐れないという意味も含んでいるのではないかな、と思いました。

つまり、次の生も次の次の生も自分自身であればオリジナリティは保たれている。

それだけではなくて、他者と比較したときに、自己の生が同じものであったとしても、他者に同情しないのと同じように自己に同情しない克己の姿というのが、ないかな、と。

その認識というのは、つまり人類全体でみるとほぼ同じ人生の繰り返しが並行して行われていることに気づけるわけで、その意味について思い悩むのではなく、その個々の生を肯定する方向を示したということではないか、と。

神の下の平等では、人間はただ等しく平等で、同質であるはずなのに、差が生じてその差に同情が巣くっている。それをニーチェは嫌ったのだと思う。

その人間の同質性の否定と、同情を克服するための自我を確立した超人の思想は、神を否定し、また、先天的に克己できない人間の存在を否定してしまったのだろう。

しかし、それでは足りない時代に今は差し掛かっていると思う。

超人の思想による個の時代は、結局、個の論理を推し進める結果になった。

それは、個と個の衝突の時代、また別の個が個を救おうとする時代で、一対一の対応の効率は限界に達しつつある。

これからは個と集団の使い分けが必要だろう。

それっつーのは、コミュニケーションと思うんだ。

その同情心ってのを巧く理解して使いこなさなくてはいけないと思う。

感想終わり。