【再読】森博嗣『ナ・バ・テア』中公文庫/読書感想

スカイ・イクリプス』を買い忘れていることに気が付いて、買おうと思うので再読を開始。

すっかり忘れている。

が、それにしてもこの1年前の感想はひどいな。

森博嗣『ナ・バ・テア』中公文庫/読書感想

気を取り直してこれよりはまともに紹介しておこう。

主人公は飛行機乗りで、追々分かるが、老いることがない。

彼らが、同じく終わりの見えない計画的な戦闘の繰り返しに好んで身を置くのは、終わりの見えない生に刺激を与えるためなのか、それとも終わりを見つけるためなのか……。

プロペラ機がジェット機に勝る効率を得られる粘性の高い世界を舞台に、森博嗣が描く生の思考実験。

こんなところでしょうか。

そこに人生訓を描くというよりも、そこに描かれる人生との対比によって読者が効果的に人生訓を得られるような設定から描いているという感じがする。

その世界は現実と似ているところもあるし、似ていないところもある。

その対比によって、人生の本質を異なる視点から突いてくる作品だと思う。

主人公たちの肉体について、一応、把握が難しいので整理したい。

彼らは、高校程度の学校教育を経てパイロットになっているようだ。そして、高校時代には既に成長しない肉体について、他者と軋轢が生まれている(ような描写があったと思う)。

その他の描写から考えて、彼らは第二次性徴を終えた時点で肉体が定常状態になるのだと考えられる。つまり、女性なら12~15歳、男性なら13~16歳程度だろう。

というか、まあ、そこからの成長というのはつまり、第二次性徴によって発達した性器から性ホルモンが分泌されて、さらに男性は男性らしく、女性は女性らしくなり、その過程で身長が伸びたり、肉付きがふっくらしたりして、大人の男性らしく、大人の女性らしくなるものだったと記憶している。

つまり、男性なら声変わり前に止まり、女性なら胸が膨らむ前に成長が止まるのだろう。それらは、順序としては、性器の発達よりも後のはずだ。そういうイメージを持つといいのだろうと思う。

そういう未発達の子供の頃を思い出せば、男性と女性の区別は曖昧で、捉えがたいものだ。

彼らは丈夫らしいので、女性は生理痛もたいしたことはないだろうし、その苦しみや肉体的な膨らみで自己の女性性を認識させられることは少ないだろう。

だから、その憧憬を恋愛に消化させることが難しい。

その生殖するものとしての機能よりも、その生命を維持する仕組みとしての肉体に、自己認識が集中する形になる。

だから、自己をより機能的なものとして取り扱おうとするし、その反発は死の香りがするものとなる。

性的な機能への反発は、硬派な姿勢になるが、そうではない。

生存する機能として自己を捉えるから、生存することに失敗することに冷淡になれる。

目的が生存に集約されているからだ。

生殖ができれば、生殖のために、生殖のための生存のために、生存のための摂食のために、摂食のための食を確保するために、労働を果たそうとする。目的との間の手段が多層化する。その多層化の中で、見失うもの、得られるもの、それを整理できているだろうか。

単純な生は、かようにも息苦しく、逃げ場所が少ないと、シミュレートされている。