ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』岩波文庫/読書感想

とりあえず読み終わりました。

面白かった。

付箋にメモして貼りながら読んだので、週末に付箋を見返しながら詳しい感想を書こうと思います。

要点は、対象は観測される形式を持っていて、観測が完全に成されればその観測されたものの中にその対象がこれからどうなるのかという可能性が内包されているということだな。

自然数が、加算という操作の冪と見ているのだけれど、自然数が自然に認識される状況というのはたとえば電子が一つ、二つというようなことだろう。

しかし、それを微細に見たときに、波の性質が見えてくるとすると、それはひとつのピークに対してそれに直行する空間で切断した断面の数が自然数として観測されているのだということであり、それはその切断面という閾で観測を区切っているから自然数的に見えるのかもしれない。万物はベジェかもしれない。

原初の時の配置とベクトルから、その曲線の関数は決定されていて、それの通りに宇宙が膨張し続けているとすると、可能性というのはないということになる。けれども、人間にとっては、その微小なる関数を観測するためのより微小なる検針を持ち得ないために、それを可能性の範囲で論じるか、あるいは、ア・プリオリな理論を発見してそれを拡張した無数の可能性の中から現実らしきものを見つける作業をすることしかできないのかもしれない。

語りえぬことに対して黙するとは、一種の厭世ではなかったかと思う。

しかし、語りえぬことは論ずべきなのかもしれない。

その論ずる相手たる他社の存在について、この論理哲学論考は簡単に扱いすぎではなかろうか?

この辺が2009.5.20読了時点の簡単な感想。

多分、関連エントリ↓

「全知全能について/侏儒雑感」

以下、(続きを読む)に詳細な感想を。

まず俺は数学の専門家じゃないので、数式で書かれた例は努めて理解せずに読み飛ばしました。

それから、以下、地の文および鉤カッコ「」は僕の解釈、二重鉤カッコ『』は本文からの引用です。

1/1.1/1.13をまとめると、「論理空間に成立していることがらの総体が世界である」。

これは、1.11/1.12をまとめた「それが事実のすべてであることによって、世界は規定されている。成立していることを規定すると同時に、成立していないことを規定する」ということの裏返しであると言えると思う。この「規定する」というのは「論理空間に成立する」ことと等価であって、ここに早速トートロジーが現れていると思う。というよりも、この本一冊が丸々トートロジーということだろう。論理とはこういうものであると、論理的に語ろうというのだから。

1.2 『世界は諸事実へと分解される』 世界は総体であり諸事実へ分解して得られる像は観測者側が観測できる閾値に依存する。例えば、人間は三原色で世界を見るが、一部の昆虫は四原色で世界を見るように。世界は世界自身で分解されるいわれはないのだけれど、世界を分解して理解しなければならないのは、観測者が世界の内側にあって、総体に対して全き観測を成しえないからだろう。

1.21『他のすべてのことの成立・不成立を変えることなく、あることが成立していることも、成立していないことも、ありうる』

2.01『事態とは諸対象の結合である』

2.012『事態の構成要素になりうることは、ものにとって本質的である』

結合というか、成立していることがらの総体が世界である以上、それは本来的に結合しているものだろう。それを構成要素へと分解可能であることが本質的であるという感じがする。

この後、可能性について論じていて、

2.0123『私が対象を捉えるとき、私はまたそれが事態のうちに現れる全可能性をも捉える。(そうした可能性のいずれもが対象の本性になければならない。)あとから新たな可能性が発見されることはありえない。』

2.01231『対象を捉えるために、たしかに私はその外的な性質を捉える必要はない。しかし、その内的な性質のすべてを捉えなければならない』

という2項の組み合わせというのは、外的な性質を捉える必要はないが、内的な性質を捉えなければ

全可能性を捉えることはできない。というか、量子レベルでの確率的振る舞いを考慮しなくて良いとすれば、対象の情報をすべて知ることができれば可能性をひとつに絞り込むことができるだろう。しかし、そうはいかないんだな。

内的性質とは、対象が持ち得ないとは考えられない性質であり、外的性質とは、それ以外の持っているとも持っていないともいえる性質と、解説に書かれていた。外的性質とは、その(日本語での)呼称とは裏腹に観取し得ない性質のことだろう。外的性質はその対象が意識を持って語るか、他の物によって語られなければならない。(すいません。逐一書いていくのはめんどくさくなってきました……)

形式とは、内的性質の区別される種類であり、形式に異なる値(内容)が入ることで、同じ形式を持つ二つの対象を私たちは区別する。異なる形式とは、質量と電荷のような形式の違いで、形式の異なる値とは、何kgかということや、電荷が正負のいずれかであるといったことだろう。

像とは、例えば人は観察しているが、それは音や光による観察による像である。像の要素は、対象に呼応している。人は、像を見るが、現実とその像は写像として共通しているもの、写像形式を持つ。人が可視光によって観測した際に得られる像は、紫外線まで含めて観測した像とは、形という形式を共通して持つ。こうして二つの観察を重ねることで、写像形式を確認することはできる。同じ人類の観察でも人によっては、結果が異なる。

3の辺り。非論理的に思考することはありうるが、非論理的な世界を思考することはできない。思考の論理に反することはできない。ア・プリオリに正しい思考があるとして、それは比較対象なしに真理性が認識されうるときだけであると本書に書かれているが、それこそが真理というものだろう。

僕が普段思っているのは、宇宙の始原から可能性が分岐するその分岐というのは、モジュラなもので、そのモジュラ形式から一意に決定されていくのではなかろうか?ということで、もしそうだとするならば今の宇宙のものとは異なるモジュラ形式を展開すれば異なる宇宙を論理的に展開可能なんじゃないかということ。

閑話休題。(以上、2009.5.24。以下、2009.6.7)

3.221 対象に名をつけるというのは、花という対象の色、形、匂いのすべてをひっくるめた全体の像そのものを認識することがまるごとここで言う「名をつける」であると考えるべきだと思う。その存在性のすべてに対して言及することは難しいから、僕ができるのは認識し、その部分たる性質などを語ることである。

3.4 『命題は論理空間に一つの領域を規定する。』というのは、認識可能な一つの領域がそのまま命題となるからだろう。

4.0のあたり 命題が、定義空間に合致したら真、定義空間に合致したら偽、定義空間を持ち得なければナンセンス。

4.112 『哲学の目的は思考の論理的明晰化である。哲学は学説ではなく、活動である。』つまりこのへんは、いわゆる「人生哲学」のような用法への抵抗だけど、しかし、それが必要とされているのも確かなんだよな。精確な観測のための論理的明晰化が哲学に要求されて、結果、哲学はどんどん観測を精確にし、正確に予測できない世界を見出したりした。それによって科学者以外の価値観が動揺した面もある。そういう生活を変えていく科学者に対して科学者以外が世界観を求めることは多い。しかし、科学者の世界観は科学的であって一般には理解しがたく、その意味では哲学が語ろうとするところは一般に身近に観ぜられるのだと思う。実際、この論考も最後に美学について語るわけだし、そのあたりから離れられるのは人の業だろうなぁ。

5.135 『ある状況が成立していることから、それとはまったく別の状況の生起を推論することは、いかなる仕方でも不可能である』確かに、まったく別の状況を推論することは、因果連鎖を信じることにすぎない。だが、その区別の必要性を感じられるかどうかはまた別の問題だろう。

5.5301 この「=」イコールの定義に感心した。区別が付かないだけでは観測者の観測の不正確さを考慮することを忘れている。満たすものはこれのみであるというのは、論理学らしい定義だ。

P.108あたり 「心理は自己言及ではないか?」とメモしている。自己の観測したことのみで論理を組み立てようとすることは自己の一部を再構成しているに過ぎず、それは自己言及の範囲から出られない。

5.553 関係性は、認識の精度によって変化するものがあると思う。自然数は10倍の目で見れば0.1区切りになると思っているのだが、それは数学的にはどう正しいのかが素人の俺には分からん。

5.6 言語の限界は認識からの写像になるわけだから、やはり実物からかけ離れたものになるだろう。

6.021 『数は操作の冪である。』普通の冪という語への認識では、操作と操作との間に隙間があるものだが、

6.1 『論理学の命題はトートロジーである。』確かに、証明はAとBが同一のものであると語る。「これはペンです」みたいなものだな。その関係性が見えにくいだけで。

認識が世界に対するトートロジーにならないこと、部分であることで観測者は世界そのものでなく観測者であることになる。

6.373 『世界は私の意志から独立である。』意志から独立の部分もあれば、意志から独立していない部分もある。

6.4以降、「このへん全くトートロジーである」とメモしている。

ラッセルの解説につけたメモ。

p151「ラッセルの誤解はひどいが、それが言語学の問題意識なのかもしれない」

p159「そもそも賢いという評価が主観的であるものだから、例にとった時点でややこしくなるに決まっている」

なんていうか、これは読者の理解度を試される内容だよなぁ。多分。

(…いかん、忘れてる部分がかなりあるな)