谷崎潤一郎『痴人の愛』新潮文庫/読書感想

大正13年、1924年の作品です。

会社では「君子」で通っている主人公の譲治は、西洋人じみた容姿をした十五歳のカフェの女給・ナオミを自分好みの女性に育て上げようと思い、その身柄を引き取って二人住まい始めます。

この十三の年の差のある二人は、はじめは友達のように暮らそうと言い交わし、ナオミは学問のある立派な女性になるために女学生のように勉強に通い、他の時には二人して服や食べ物に贅沢をして楽しく暮らしていました。

しかし、二人が友達以上の関係となって以来、歯車は譲治にとって狂い始めます。

ナオミの贅沢はとどまるところを知らず、譲治が夢見た淑女とはかけ離れたものになっていくのです。

しかし、ナオミの体を知ってしまった譲治は……

ラストは常識人としては認めがたいですね。

なんつーか、平手くらい食らわしてやりたい。

でも、こういう夫婦関係って実際にあるよな。っていうか、ずっとあってきたというか。

日本でこういう文学が書かれるようになったっていう象徴的な作品、という理解でいいのだろうか?

漱石が、外国文学を意識して、不道徳を描くことによる道徳の活写を『明暗』に実現しようとしたのとは違って、これは単なるインモラルの事実を良識家に敢えて提示するものなのだと思う。

そういう、インテリに糞を引っ掛ける様式ってのは二種類あって、白いレースにサディスティックにぶちまけて飛び散る悲鳴を楽しむものと、ぶちまけた汚物を見下す目線を獲得しようとするマゾヒスティックなものとがあって、谷崎潤一郎は後者だと思うんだ。

しかし、そのマゾヒズムってのは徹底的無私から成り立っている。マゾ側には、虐げる側への徹底的な崇拝があって、その崇拝の証拠として上下関係を肉体的精神的隷属によって確認している。それは、自らを上位者の下に捧げることで自分の信じる上位者を正しく擁立できているという安心感なんだろう。そこにある主観は「自分は仕える者である」というものであり、その主観が極めて限られているだけに他の事象に対して恐ろしく客観的に、無感覚になりうる。

さて、谷崎は、谷崎の母とどういう関係にあったのかは分からないが、母が何かしらの原因となって女性観が極めて偏っている。そして、女性崇拝を基点とした社会の捉え方を持っている。

ナオミは西洋の雰囲気を持っていて、譲治もそういうものに憧れて、そこに近づこうとする。

しかし、結局それを達成することができない。ナオミは妖婦となる。

そこに描かれる西洋化できないという感覚と、それとは無関係な近代女性への崇拝には、つまり、近代女性を敬遠する保守的な向きへの反発であるし、西洋化への現実的な感覚を兼ね備えている。

むつかしいけど、谷崎にとって西洋化というのは女性が自己の崇拝するものとの一致のために必要と感じていて、歓迎していたという感じがする。しかし、一方で冷静に西洋化は完全にはなしえないという感覚も持ち合わせていた。そういう感じ。

谷崎にとって社会は女とそれに隷属する自己しかない。そういう像をそのほかに伝えようとする意図がある。だから、それ以外の事象に対して客観的になり、西洋化の行く先に冷ややかな目線をこの時点で確立している。

なんかそんなことを考えた。

あと、フェチズムの新味ってのはたぶん、時代的新しさは新しい物品の登場でしか現れないんだろうな。

お馬さんごっことか足とか匂いとかシャボンまみれとか、その文物が現れた時点でフェチは完成してしまうんだろう。

なんてことを思った。

(090403読了、090412記……いかん、やっぱ切れ味ねーわ)