再装填/daily
この爪の先から髪の先、皮膚から臓腑に至るまで、見渡してみてオリジナルなものがあるだろうか?
これはすべて食べてきたもので、それを遺伝子によって消化して再構築したものだ。
情報にしても同じ。
どこかから拾ってきて、自分に填め込んだだけ。
どの部分をとってもオリジナルな部分はないだろう。
しかし、この皮膚で区切られた体の全身を見れば、それは僕であると分かる。面長の顔、細長い手足、左ひざの手術痕。これらすべてひっくるめて僕の独自性を成している。
ある作品を送り出すことは自分の中の情報を切り出して見せることに他ならない。
これに肉体のたとえを利用するとしよう。
出し惜しみをすればそれはたとえば右腕だけを切り出して見せることになりうる。中指だけを切り取って見せることになりうる。
それでは独自性は見出しにくい。
それは僕ではなくて、右手や指としか認識されない。
もっと多くの部分を注ぎ込む必要がある。
つまり、仕事とはそういう全身性があるのだと思う。
一方で、コミュニケーションとは共通点、共通意見を探す行為であり、それは部分を取り出しあうことなのだろう。
共有できる部分を探すためには隠さなくてはならない部分もある。
とがっている所や、へこんでいる所を人は隠す。
その独自性と共通性との対立する所は何かしらの理屈で呑み込んで独自性の中に取り込んでしまわなければ、生き易いコミュを創造することはできない。
そんな生涯何度目かの同じ思考をたどってみる午後の空腹。
こうやって自身の教条を反復することは、どうもリボルバーに弾丸をひとつひとつ再装填するのに似ているような気がする。
なにか敵にぶつかるたびに消耗するものを、リロードするような。