夏目漱石『こころ』/読書感想

非常に面白かった。

高校時代に教科書で部分的に「K」が死ぬくだりを読んだ限りではこんなに面白そうな感じじゃなかったけどなぁ。

まあ、当時の僕は若かったので「偉そぶってても融通が利かないばっかりに苦しんで、それで結局裏切られて失恋して自殺とか、『K』は馬鹿だな」とか思ってたので、当時読んでも理解できなかっただろうけど。

恋をしたこともなかったし、まさか後の自分がこの「K」とか「先生」とか「私」と似たようなことを言ったり書いたりするとは想像もしていませんでした。お恥ずかしながら。

考えることが非常に多かったのでちょっと感想長いです。

「私」の青臭さというのは、自分がそうだったことを思い出させ、そして顔が赤くなるのに十分なくらいよく分かりました。なんていうのか、中途半端なインテリが陥りがちな厭世趣味と言いますか……。

「私」は帝国大学を評価していません。それは何故かというと、大学卒といえど方々に就職の口を求めて回らなければならない、そういう自尊心を傷つけられるようなものでしかないと気付いたからです(おそらく明治維新から40年が経ち、当時から活躍する名士とそれに続いた大学卒業者たちとで要職が占められていたからだと推測しますけど)。

「私」はそのギャップを知って苦しんでいますが、田舎の両親はそれを理解できていません。いえ、そもそも「私」をして大学に過大な幻想を抱かせたのは田舎の両親なのでしょうけど。「私」はその変化した実情を知り、両親はまだ知らないだけなのです。この両親との認識の相違が、「私」に両親を軽蔑させる素となっています。

だから「私」は卒業への努力や就職活動の努力に消極的になっているのです。(うわぁ……学部時代の自分そのもの過ぎて気持ち悪い……)

「私」は大学への道をもたらした「父親=目標を与えるもの」を、大学への失望と実際に父が病気によって弱まっていく姿を見ているために、すでに失ったような気持ちになっており、その代わりの新しい目標として父親像として「先生」に近づいたのだと思います。「先生」のように、学識豊かでありながら世間に知られず自尊心を危険にさらすことなく生きている姿に憧れたのだと思います。

その慕う気持ちというのは、出会いが海水浴場であったということで同性愛的なものと誤解されているようですけれど、むしろ父親を欲するような感じではないでしょうか?(まあ、そういう感情が発端となって恋愛感情に転換されるということが男女を問わず起きることを否定するわけではないですが。)

さて、そんな「私」ですが大学を卒業して帰郷した後、実際に父がどんどん死に近づいていく姿を、そして、明治の終わりに接した父の反応を見ます。

この描写はすごく重要で、不貞腐れていた「私」が父の実際の死によって父の跡を継ぐという選択肢に直面することになるわけです。「私」の視点ではそれが新しい時代の到来と重なっています。

一方、父の視点では、無為に存えているという意識になります。子供を立派に育てたという自負を持って、自身の繁栄と歩調を同じくした明治の終わりに接して、置き去りにされたような寂しさを覚えたのだと思います。

この象徴的な転換点は、「先生」にも効果を発揮します。

「先生」は何がしかの暗い過去を「私」に匂わせて「私」が「先生」のような生き方をしないように、と警告します。しかしその一方で、妻にも理解されない(理解させていない)孤独から「私」が理解しようとしてくれることに安らぎを感じていたのも事実でしょう。その「同じ道を歩ませてはいけない」という正義感と「理解者となって欲しい」という湿っぽさとの間で、どちらともはっきりできない罪深さが「先生」にはあり、また「先生」自身がそれを理解していて「私」と接するごとに同じ過ちを繰り返しているという罪悪感を再発させていたと思うのです。

その割り切れなさは自信の無さ、つまり「自分を信じられない弱さ」から来ており、それは叔父にだまされて変貌しうる他人も自分も信じられなくなったというところから始まっています。人間不信というのは、他人を信じないだけでなく自分を信じられなくなることにも繋がります。他人を信じないが自分は信じているという人があるかもしれません。しかし、それは出発点が違っていて、前者は他人を信じることができないから自分を信じられなくなるという経過であり、後者は信じられる自分が在ってそれから信じられない他人が在るという経過であるわけです。この出発点の違いから、後者は後々信じられる他人もいることを知ることや、他人の信じられる部分を知ることに対してさして抵抗を覚えません。だからこの後者の擬似的人間不信は克服が容易であり、逆に前者の真の人間不信は克服が困難なのです。

さて、前者の人間不信に罹ってしまった「先生」は、しかし良い下宿先に運命的に恵まれて徐々に回復し、その回復した心でもって心を弱らせていた親友「K」を救おうとします。

この「K」に対して「先生」は劣等感を持っており、この劣等感を「K」を窮状から救うことで解消しようとしている面を否定することはできません。しかし、自己認識の上では善意から発した行動である以上、心理的な裏側にどういう利己心が無自覚的に潜もうともその行動は否定されるものではないと思います。ただ、無自覚的であったからこそ、その劣等感を意趣返しして心理的優位に立とうという目論見が裏切られた時に「先生」は明確な裏切りを「K」に対して表明することになってしまったのです。

「K」はなぜ自殺したのか?「先生」の裏切りが直接的なきっかけになったのは事実でしょう。しかし、もともと「K」はいずれは死に向かっていたものと思われます。それは「K」が自分自身を信じられなくなっていたからです。「K」は無闇に自分自身を禁欲的な精進へと駆り立てていました。正道というものがこの世にはあり、その正道に向かっていれば裏切られることはないと思っていたのだと思います。しかし、現実には正道を進むために犠牲にしたものを埋め合わせることはできず、限界が近いことを感じ取り自分が信じていたものがどうやら間違っていたらしいことに気付き始めていた。それが「先生」が下宿に誘うことになった危うさの原因だと思います。

「K」は遺書においてその苦しさが自分の意志薄弱さに原因があると表現したようです。つまり、方法ではなく自分自身に間違いを求めている。そういう考え方では、後戻りして方法を変えようということはできないし、弱い自分自身を抹殺する以外に道がなくなってしまいます。

それから、そういう自信喪失状態では、他人に対して見せる自己像を描くことができなくなり、他人に信頼されようとすることができず、その裏返しとして他人を信じることまでできなくなってしまいます。

「K」はこういう状況にあったと思われるのです。

しかし、「K」がなんとか生きていたのは、そんな自分に世話を焼いてくれる「先生」がいたこと、それからそういう状況でも普通に接してくれるお嬢さんがあって、あとわずかに彼らが自分を信じていると信ずることができていたからだと思います。そしてそれが恋にもつながったわけです。

しかし、その最後の命綱は「先生」とお嬢さんの結婚という裏切りによって一度に断たれてしまい、「K」はその初志に従って自死を遂げることになったのでしょう。

この「K」の生き方は、乃木大将の殉死のように明治的な美学に基づいているように感じられます。

だから「先生」は明治という時代の死と、乃木大将の殉死とに影響されて自殺を決意したのではないでしょうか。特に、ずっと死ぬ機会を待っていたという共通点も感じ取ったかもしれません。

それはただのきっかけにすぎません。しかし、ほとんど精神的に死に瀕した者は、いつでも万物に自分が死ぬ理由を与えて欲しがるものであり、この明治の死は親友を思い出させ、十二分に「先生」にとって死ぬに足るきっかけになったのだろうと思います。

確かに、そんなことで死ぬくらいなら十数年も何故長らえてきたのか、という点は不思議です。でも逆に、そうまでして長らえた点が卑怯とも取れます。親友への罪悪感と妻への執着の間で、どちらにも転がらなかったわけですから。

客観的には、「先生」は妻にすべてを打ち明けて、すっきりしてやり直せばよかったと言えるかもしれません。しかし、それは自分の生き方を変える、つまりこれまでの自分の生き方を殺すことに他ならず、その精神的な死はインテリ的には肉体的な死と弁別することが極めて困難と感じられがちなものなのです。

「先生」は自分の生き方を学ぼうとする「私」への教訓として、かつまた自己を知ってほしいという純粋な人間的感情として、両方から手紙を送ったのだと思います。そして、この手紙によって「私」にすべてが伝わると、「先生」と心を同じくして漱石自身が思ったことから、「先生」の手紙の章によってこの作品は終わっているのだと思います。

もし、漱石が「私」の視点に立っていれば続きが描かれたかもしれません。しかし、ここには十分に興味深い精神的な蠢きが描かれていて、これ以上が蛇足になる可能性を考えるとこれで満足すべきとも思います。

ここに足りないものがあるとすれば、それはもっとどろどろとした人間的な欲望でしょう。

金に汚い人間、性に貪欲な人間、そういうものがインテリ階級には表出しにくい。

たとえば『カラマーゾフの兄弟』はその複雑さがあって、その影響がうかがえる『明暗』にはそういう挙動を示しそうな人間がいくらか見えています。

そういう意味で『明暗』が未完なのはすごく惜しいんですよね。

しかも、『カラマーゾフ』は性的な欲望の問題は過去にあったものであって、現在進行形の事件としては少し弱い一方で、『明暗』では温泉郷において現在進行形で描かれる余地があるわけです。

漱石の作風からそこまで踏み込めたかについて疑念は残りますが、素地は素晴らしいものが作られている。

『こころ』と『カラマーゾフ』の対比から『明暗』を回顧するに、そういう直感を覚えました。

これは確かに大人から見て子供に読ませたい作品。

しかし、これは大学生くらいに自尊心が育たないと理解できないだろうから、高校の教科書なんかで部分的に教えるのは間違いだとも思った。

それにしても、なんとなく維新世代に要職が上の世代に占有されている大正初期の閉塞感と、戦後世代に要職を占められている現代と、なんとなく似ているなという印象を持った。大学の捉え方しかり、世代間ギャップしかり。雇用形態も流動的だったらしいし、やっぱり時代は繰り返しているという気がする。

だから、過去に学んで同じ失敗をしないようにしないといけないんだけど、こういう時代を超える名作がそういうことに気付かせてくれるのは文学の力を感じるなぁ。