四季とフランシーヌの違いについて/読書感想

瀬名秀明デカルトの密室』(新潮文庫)に登場するフランシーヌ・オハラと、

森博嗣「S&Mシリーズ」、「Vシリーズ」、そして「四季シリーズ」に登場する真賀田四季

この二人を似ていると思う読者は多いだろうと思う。

まあ、僕が完璧に理解しているはずも無いのだけれど、この論点について僕の考えをまとめておこうと思う。

どちらも数学的な―理系の―天才科学者で、若くして才能を発揮している。

類稀な美貌を有しているのだが、世の中にとっては突然に公に姿を現すことが無くなった。

その彼女の再登場が物語の大きなきっかけになっている。

また……あー、ここからネタバレします

……。

また、彼女は自ら生んだ子供を道具として扱ったことが描写されます。

さて、こういう共通点だけを挙げると、まったく似たようなキャラクタなわけですが、僕はかなり違うと思うし、その違う所に瀬名秀明森博嗣の両”理系作家”の違いがよく現れていると思うのです。

まず、フランシーヌは人の感情を理解することができないという欠陥を持っている。

これは類似する状態が実際の人間にも観察されることであるが、それが天才的な数学的センスと関連しており、そして、その欠陥と数学の関連分野である人工知能について彼女は権威を確立することとなる。それは、彼女が人の感情を理解しないからこそ、人の行動様式を良く模倣する人工知能を作れたということである。

ところで、作中ではフランシーヌがコンテストに出品した人工知能をどうやってプログラムしたかは紹介されていない。しかし、ユウスケがケンイチを特殊な知覚と時間経過とをも関連付けたエキスパートシステムによって構築したことが示されていることと、フランシーヌが人間性を理解しないこととを考えるとこういう「人間的な方法」は取らなかったに違いない。

その人間性の欠落は、真鍋と共有することとなる。

真鍋とのセックスにフランシーヌが何を見つけたかについては、語られていない。

しかし、僕が推測するに彼女と彼は互いに人間性への理解の欠落を見出したに違いない。その欠落の質に違いこそあれど。

その欠落が二人を結びつけた。

さて、長くなってしまったけど、こんどは真賀田四季のケースを見てみよう。

四季は感情を理解する。そして、自分の中で複数の人格をシミュレートすることすらやってのける。それを世界を理解する術として楽に使いこなしている。彼女の才能は数学に限られない。四季の方が天才としての汎用性に優れている。なぜならば、森博嗣がそういう価値のある人物として描いているからだ。

フランシーヌは、物語の中で人間性を深く問うために、人間性の本質を問い直せるだけ能力を限定されている。主人公に対置される、間違った価値観の体現として完璧な存在たりえていない(あるいはそういう魅力を得にくいように描写されている)。

しかし、四季にはそれがない。ミステリの中で「天才だから生き残る」という動機を描くために飛びぬけた天才となっており、そこに底を設ける必要がない。超越的で、無限に魅力的なままである。

より完璧と言えば、娘のフランシーヌは感情を解する。しかし、同じく魅力的ではない。

それは作劇上の理由以上に、娘のフランシーヌはその天才性を発揮する機会が与えられていないからだ。娘のフランシーヌはどこまでも道具のように見えるし、そのために道化のようでもある。操り人形と言う印象は拭えていないのだ。

成立年から言って、瀬名秀明森博嗣に対抗したように見えるのだけれど、対抗したのならば敢えて劣るように書くはずもないだろう。対抗意識が無いからこそ、比較した時にこういう対比が現れる。

では、何故似通ってしまったのか?

現在、科学は細分化の極みにあって、なまなかな才能では現代の科学が直面している問題を踏み台として科学の視点から現代社会の問題点を指摘するという作業が行えないという実情がある。

そして、極めて感情的な理由によって動いている社会に対して、数学的解析を行い、その論理的思考と現状との対比を描くという欲求を作家に起させる。あるいは、それを見たいという欲求を読者に起させて作家にそれを書かせる(森博嗣はそういう態度を示している)。

その天才の性別であるが、男性から見た女性の神秘性というのは、まあ、心理学の本でも読んで欲しい(僕は読んだことないけど)。敢えて下品に言うなら、種を垂れ流すだけの男の機能に比べるとしっかりと十全の機能を有する一個の個体を腹にこさえてそれを守っていく母性と言うのは全く神に等しく見える。女性にとってはそれが当たり前なのだけれどね。

作劇的には女性は精液さえ入手すれば子供を生めて、一人で育てることもできる。男だったらなかなかそうはいかない。生ませて攫ってもミルクを買ったりいろいろやってれば男はどうしても目立つ。女ならそういう気遣いはいらない。

そういう育児の営みによって人間性を深く描けるというのも登場人物として魅力的だ。その育児の内容によってその母親の特異性も描くことができる。

ま、そんな感じで女性の天才科学者というのは、創作的にすごく魅力的なのです。ラスボス的意味で。

逆に言うと、ラスボス以外では存在が巨大すぎて扱いづらいから、そういう作品が少ないというのもあると思います。その結果、真賀田四季とフランシーヌが特に似ているように見える結果となった。

熱血の一本気な少年なんて見飽きてますけど誰もパクリとは言わないですよね。

創作の登場人物というのは、時代的欲求の発露だと思うわけです。

つまりこの二人を分解すると、女性、母性、育児、人間性⇔ロボット、理性的理解、ってことになります。同じ要素からできているから似るわけですが、それは同じ背景=社会があるからですよ。

そして、描かれ方の違いは、それがテーマ性がメインとなっているSFとテーマ性が脇役でトリックが主役であるミステリとの違いなわけです。

そして、そのジャンルの選択の違いは、創作にある程度の目的意識を持つ瀬名秀明と、収入の道として受ける小説を書くとある程度割り切っている森博嗣との違いでもあると思います。

まあ、森博嗣の作品はマニアックで趣味的じゃないかと言う指摘はあるかもしれないですけど、ああいう方向には今までニッチがあって、そこが開拓されて「理系なんたら」というジャンルが開拓された。そういうニッチ産業には鉱脈があるという認識だと思うんですよね。(森博嗣のこの読者との利害の一致の確信というのは、小狡くて好きです。)

そういう意味でもこの二人の人物の対比は面白かったです。

さて、両者の最期は対象的だ。

四季は自分を理解し、現状の自分を破壊するほどの力を持った人間を待ち続ける。

フランシーヌはロボットに自らを殺させ、それによって自分の分身たるプログラムがネットで育つきっかけを作る。

その出した答えの意外な対照性も興味深いと思いませんか?

以下、自分が書いた関連記事であるところの読書感想へのリンクを置いておきます。

森博嗣『すべてがFになる』(講談社)

『四季・春』森博嗣(講談社)/小説

『四季・夏』森博嗣(講談社)/小説

『四季・秋』森博嗣(講談社)/小説

『四季・冬』森博嗣(講談社)/小説

瀬名秀明『デカルトの密室』新潮文庫/読書感想