現実に対する自己の定位について/自己言及

僕はみんなとは裏側から世界を見ていると思う。

それは、裏側の世界にいるという意味ではなくて、世界の見方の問題。

あるいは、“ネガ”と“ポジ”で表現するほうがいいかもしれない。

みんなは現像した写真のような見方だけをしている。

僕は現像前の“ネガ”のような暗色の見方をしている。

それは、世界の看取においては、“ポジ”を操作して“ネガ”にするから、“ネガ”の方が二次的な、不自然的な解釈なのだけれど。

“ポジ”的見方の人は世界をそのまま善意として見ている。だから、それに外れたものを悪と見て排斥する。

僕は“ネガ”的見方だから、“ネガ”を外れて善意を見せる人間を希少に思い、それを愛しいと思う。

僕は自己の存在は他者に必要とされていないという前提の下に、自己とそこから辛うじてつながっている社会を見ている。

よって、孤独だとしてもそれは非存在よりはいくらかマシであると考える。

多くの人は、自己の存在は他者に必要とされているという前提の下に、自己とそこからつながっていく社会を見ている。

よって、孤独だとしたらそれを不自然と考え、自己とつながってくれる他者を求めて社会へと働きかける。

僕はそういう“ネガ”の裏返しとしての“ポジ”を知っているだけであって、こうして説明しているのは説明できているだけである。

“ネガ”的考えは心の中ではなく心の下に既に在るどうしようもないものであり、“ポジ”的考え方をするのには多くの人が数学の問題を解くような心理的努力を要する。

つまり、僕にとっての“ポジ”的考え方をする人間と話をすることは、“ポジ”的人間にとって絶え間なく数学の問題を解き続けることに等しい。

だから、“ポジ”的人間と話を続けることを積極的に試みないのである。

この非存在性というのは、社会と自己とを切り離しがちであるが、社会とつながっている部分の自己をも切り離してしまうことができる。

だから、この考え方の下で人は自己に対して非情であるし、執着が無いように見える。

また、所属ごとの自己があると考えて、そのそれぞれを異なるものとして扱いがちである。

“ネガ”的考えは少数派である。“ポジ”的考え方は連携して事に当たり、強力だからである。

それはとても自然なこと。自然淘汰に適ったこと。

そして、僕にとってもその“ポジ”的考えはとても羨ましいし、その中にある人たちを見るのは楽しい。

“ネガ”的足場に立っているからといって、常識がないわけではないからそういう理知的理解は働くのである。

しかし、感覚的理解はできない。

必要とされていると思わされることは、とてもよくわからない心地よさがある。

原則として、非才不要の人を自認しているので、まったくそういう状態は落ち着かない。

何か自己の能力を超えているように感じられる。

孤独でいる時、自己消滅の必要性は感じない。

むしろ、必要とされている時にこそ自己消滅の必要性を感じる。

有の中で無視できるような小と自己を思い為し、無が無に帰するだけと考えるからである。

しかし、孤独にあっては、無の中の希少な有と感じて、それを大事にするのだ。

孤独へと帰っていくことで自己を回復しようとするのは、そういう理由がある。

それは孤独を好むと評されるが、実際のところ好むと好まざるとに関わらない自己存在の確認作業にすぎない。

多くの人がコミュニケーションによって自己の存在を確認するのに対し、僕はコミュニケーションの中に自己の存在を見失い、孤独の中での自問自答によって自己を確認する。

だから、一人の時間が欲しい。

こういう見え方の差異というのは、もっと極端に言えば“セカイ系”的な、「自己の存在がセカイを左右する存在である」というような幼児的な全能感にあふれたものですら現実にある。

そして、人はそこから出発して経験をつみ、その世界観を修正して現実的なものにしていく。

僕のこの世界観もいくらかは以前よりも修正されて、柔軟になっているし、人はそういう変化する余地を持っているものである。

だから僕もいつかは“ポジ”的考え方を自然とできるようになるかもしれないという希望を持っては、生きている。

それは相対的なものにすぎず、流動的なものだからだ。

現実をまっすぐ受け取るのか、裏読みするのか、しかし見ているものは常に一つのはずだ。

ただ、情報の過多、足不足の違いが人をすれ違わせているし、裏表では情報の解釈に違いがでるけれども。