概念の細分化/daily

今は「曖昧な概念の衝突」に興味がある。

ある一個の人物の中では概念は人生記憶に即した単一の形で保存されているのだけれど、

また別個の人物の中では概念は同じようには記録されていないし、そのために二者の概念の運用には相違がある。

ここで二者のコミュニケーションは言語という記号を媒介として行われるのだけれど、とうぜんながらにして同じ言語についても二者は異なる人生記憶のために異なる認識を有している可能性がある。(ある一個の概念について同じ経験をすれば概念はほとんど同じになる。たとえば、同じ辞典を基にした知識しかないとか。)

となると、二者はコミュニケーションによってその表現する概念のとりうる閾値を協働するのに不具合が生じない程度に限定しなければならない。

こういう作業を人類はずっと重ねてきて、現在に至るわけである。

さて、これを未来へと拡張すると、ますます概念は増えていくが人間はどんどん忙しくなってコミュニケーションに使う時間を減らそうとしたがっている。そうなると、共通の人生経験を保証する何かだとか、あるいは、裁定を行ってくれるなにかを必要とするようになるだろう。あるいは逆に、まったくゆったりとした生活を志向するか、である。前者はたぶん、異なる存在への志向で、後者は現在の人間存在そのままであろうとする停滞ともとれる。それは、進化と発展なき退化に等しい停滞との対立であって、SFチックである。

逆に、これを過去へと拡張すると、概念は少なく曖昧になっていく。それはかつて日本語において、「さ」が小ささ、細さ、早さ、速さ、を広く意味していて、そこから音節を増やしてそれぞれの意味へと細分化して行ったような、そういう発展を思わせる。逆に伸展すると、細分化した言語がコミュニケーション不足によって使われなくなると、よく使われる言語の意味が広がる、ということになる。これは、現在の若者語が貧困であると指摘されると同時に、同じ語が広い意味を獲得している状態に看取できる。

コミュニケーションが減少することで、コミュニケーションによって互いが抱いている概念の認識を改めあうという行為が苦手になることは容易に考えられる。

すると、話し合いが成立しなくなるし、実力行使が好まれるようになるだろう。

コミュニケーションを持つ余力を持たないことは、それはコミュニケーションを形式化させる力が働いていたり、そもそもその集団が疲弊していたりする。

僕も疲弊していて、言葉の用法が大概に良くないけれど、そんなふうに感じる。

麻生とか小沢とか、野沢とマンナンライフと消費者団体とか、つーか民主党は大概にしろとか、元厚生次官襲撃事件とか、派遣切るとか内定取り消しとか、郵便物放置とか、周産期医療で都知事と厚労大臣がもめたりとか、2兆円の給付金とかね、何を大切に共有すべきかというところの共通認識がゆるゆるすぎる。

こんなんでこれからの少子高齢化時代を乗り切って行こうとか、甘すぎるんじゃないの?

国が危険に陥るときというのは、だいたい末端のインフラからほころびて、生産の不良につながり、人心が決定的に荒廃するわけです。

ま、国政こそが最大のインフラなわけですが。

あー、ま、自分でも何言いたいか漠然としてますが、こんなとこです。

すらっと説明する用語を持たないからこういうわけわかんないことになるのよね。うーん……。

なんていうか、自分が気持ち悪い。

話がどんどん逸れていく所が頭悪いよね。いかんなぁ。

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