適すること、出来ること/daily

僕は僕を育てた親や教師や友人の期待に応えなければならないと思うのだけれど、その最大とは「僕の能力が最大限に活かされること」でありその最小とは「僕の生命が最小限にも生かされること」であるということにはなかなか気がつけなかった。

更には、僕が出来るようになるかもしれないことを出来るようにならねばならないと誤解し、出来ないことがあることを無能力と思うようになっていた。

実のところ社会は、出来ることをして糧を得て、出来ることを増やしていって養うところを殖やすことを求めていて、出来不出来は当人の与るところではなく上役に帰せられるべきと思う。

しかし、その判断は難しいから、個人主義を介して個人の判断に帰せられているのが現状で、ようやく人材育成・管理が注目されているし、そこにビジネスチャンスが生じている。

根本に据えられるべきは、生きること、食べること、着ること、住むこと、家族に囲まれ、楽しむこと、であって、それを基点として小社会を積み上げて大社会を維持すべきと思うのです。

そこには技術の発展が影響しにくいように、基礎技術教育の徹底が必要であるし、頭脳労働不適応というレッテルを肉体労働適応と認識を改める必要がある。それだけ極端な違いが肉体労働と頭脳労働にはあると思う。

それが徹底した現実性だと思うし、それは人情と理論の融和と思う。

今の僕も、感情と理屈を積み重ねて擦り合わせているところで、それなりに外れていないところにいると思っている。

少なくとも、出来ないことを気にしていた時期よりは正しい。