此処のこれ、この困惑/自己言及

空虚だ、と思う。

空を見上げているとゆっくりと上下の感覚が麻痺していく。

空が落ちてくるのか空に落ちてゆくのか。

判然としないまま天地が逆さまに落ち合って、区別を失っていく。

そこには思考しか残らず、身体感覚は消失する。

「生きているとはどういう状態だろう?」と問う。

私は私を私で思う。

認識。

誰かの体に反射した光を網膜が受けて他者の存在を認識するように、

誰かの言葉を聞いてその思考の一端を認識するように、

認識したものが自身の外にあることを信じ、そして自身も同様に他者に認識されていると信じることの中に生きていることを信じることがあるように思う。

私は私の内側でそういう思考を認識する。

見えているものを見えているままに受け取り、

聞こえるものを聞こえるように受け取ることは難しい。

外側のものと内側のものとが容易に区別されることはなく、外側のものが内側を通過するうちに変成してしまうからだ。

僕は恋をしたときにそれを強く実感した。

僕は僕の中に対象の像を勝手に作っていて、その認識の間違いに愕然とした。

客観的意識としてそういう人間の性質を理解できていると思ったのに、実践できていなかった。

それが失恋した時に一番ショックだった。

ありのままに見ること。

僕はずっとそれができていない。

僕自身を客観的に評価できていない。

時に過小評価であり、時に過大評価である。またはそれらが交錯している。

私は何かしらの役に立つ存在である。

パソコンも使える。ある程度理知的である。公平さを志向する。

それらはよい点である。私はそういう主体性のない客観的な存在であると自認する。

しかし、主体性のなさというものを人は嫌う。

それが僕にはよくわからない。

くらげに骨がないのを嫌われても困る。そういう感じがする。

私は、そういう主体性のない人間が成す所少ないことを理解する。

しかし、私的経験からすれば、主体性を持って良いことになったためしがないために、感情がそちらに赴くことがないのだと理解することもでき、私が拍車や手綱でない以上はそれを修正する力は持ち得ない。私は、薄皮のような存在で、自分を静めて自意識が薄まったところにあるからだ。

それが自分自身のすべてであるとはとても思えない。

僕自身の求めるところは明らかに他人に腐されることがないことだ。

つまり、求められることには応じ、嫌われたくない。しかし、できないことはある。それがつらい。わからない。知りたくない。いらないと言われたくないが、要らないのかもしれないと思う。わからない。

薄皮は思う。それが10代の僕の良くないところであると。

5つの僕は、空想していた。物語を読んだり作ったりするのが好きだった。

その僕であれば、生きる意味を知っているだろう。しかし、同時に好き嫌いが激しい。

どこから来たかわからないようなソレは私なのであるが、ソレが溶け合わないのかがわからない。

僕は問う「僕に何をしてほしいの?」と。

やるつもりもないくせに。できない理由を並べ立てるくせに。

あなたたちは問う「君は何がしたいの?」と。

わからない。なにもしたくない。面白いこと?面白いことはすべてなくなってしまえばおしまいの、一瞬の愉悦にしか過ぎないのに。楽しいことは3日も続かない。ずっと楽しいことなんてない。

それが僕の認識。

私は、私は僕から少し離れた冷たい存在として、つまり所謂良識派ってやつだ、ソレは、考えるには、楽しいこと生甲斐のあることはすべて考えよう感じように過ぎないと、つまりやってみることに意義があると答えますと。たとえば仮に物語を書くことであると。

ぼくは、ぼくのかんがえたはなしはおもしろいとおもう。

そういう、童猪ぶりというのは稚気にて長じて忘るべしと思うけれども、そこに拠り所を求めなければ今在る意味を見出し得ぬも事実。

しかし、僕という従属する者にとって、そういう自意識というのは、要らないものなのです。

僕は要らないものを捨てた残り物ゆえに生きなのです。

そういう相矛盾する考え方の相克の果てに、最近、よくわかんなくって、しっとり健やかにぼんやりと、何がしかの文字や画像の群れをおかしみながら生きていて、私は良くわからなくて書くことがないのです。

生きていることを感じるのに、手指を動かすだけで足りないことはない。

爪の先から関節ごとに筋肉を感じていくだけで、自分の肉体の境目をしることができる。

目を開くだけで外界を見ることができる。

食べる。歩く。喋る。

それらの生きていることたちは、すでに経験しているから自身の存在の証拠として納得するものとできる。それは、肉体的に理解できているということ。

恋だの愛だの、労働の喜びなど、肉体は知らないから、知らない。

精神は彷徨っている。

それが現状。

私は私の思い通りでないことにイラつくとしても、僕は思い通りにならないことを当然と思う。

むしろ思わないことが幸せなのかもしれない。

そういう、存在の無さが。

そういう虚無に還った時、どこからか風が吹くようにふわりと、何かを書いてもいいのかもしれないという気持ちが起きる。

茫洋とした海の向こうからかどこからか「書けばいいのに」って。

そういう所在の無い所に欲求があるというのは、なんだか他人にはよくわからないと思うけど、僕はそれを解放されたと思うんだ。

何故だかそう在ることが自然に感じられる。

感覚的に他人の精神の状態は良くわからないけれど、客観的に見て他人の精神はこういう構造をしていないのだと僕は理解しているつもりだ。(という僕は、ここまでの過程でようやくひとつの見解を形成しつつある一つのものなのだけれど。)

一般的に言ってそっちの方が幸せな生活を送りやすいというのはすごく良くわかる。

そういう安定性を見ているとこちらも安心できる。

僕の不安定性の所産というのは、人にとってよくわからないものだと思うし、それが当たり前だからこそ人間社会は運用されていると思うのだから、私の異質は私の中で処理するものとしてぜんぜん放っておいて下さって構わない。

だから、能力ぎりぎりまで出せといわれても無理なことが多いことだけは理解してほしい。

僕ってのは、昔からこうだからどうだというのだと。

能力ぎりぎりまで出そうとするから不安定性が目に付くのだから、平均値を要求すれば下限は目立たないと思うのに、上限値を見るからわけがわからないことになる。

昔から僕は平均値で自分を運用していて、余った部分を創作へと向けていて人工言語や人工物理の構築に力を注いでいたりして、そういうのを何か一方向に傾けろと言われてもわやくちゃなのです。

なんかもう、そういう感じでよくわからないままです。

なにしてるんだろ?

目的の無い思考。

指向性の無い思考?

ゲームとかアニメとか漫画とか可笑しいの。

バイト楽しいの。

考えなくていいの。

それらはいいの。

考えること?

深いところに何かあるよ。人の深いところ、水の深いところ、森の深いところ、土の深いところ、空の深いところ。あちこちにいろいろな深い者たちがいるよ。

木の下の暗がりには人がいるような気がするよ。

水の中から半ば腐った人が見上げているよ。

道は夥しい死体が積み重なってできているよ。

風には血臭や腐臭が混じっているよ。

空から、空から人が泳ぐように降ってくるよ。

細胞の集合が体だよ。

鏡に映るものは幻覚だよ。

無数のそういうけがらわしいもので世界は成り立っているよ。

それらはいつか勝手に動き出して、爪が指を喰らって、鼻が口を飲み込んで、目がぷっくりと膨らんで水風船のように破裂して破裂した反動でその伸びきった皮膜が頭をぴたりと包み込むよ。

そういう光景を脳裏に想像するよ。映像になって動くよ。音も聞こえるよ。

そういうよくわからなさもあるよ。

普通の人はそういう日は無いの?そういうものを見る目はないの?

そういう混沌を猫を撫でるようになだめすかして愛玩しつつ、もっと静かに穏やかに暮らせたらと希う。

ぜんぜん道(ほうほう)は見えないけれど。

電話があったからどうしていいかわかんなくて困っている。

何も手につかないし、何も考えがまとまらない。怖い。

(追記)

ブックオフで吼えペン読んでたらようやくどうにかなんとかなりそうな気がしてきたぜ!

とりあえず留守録をチェックだな!