二階堂黎人『地獄の奇術師』講談社文庫/読書感想

良い本格推理小説です。

しかも、探偵小説の趣を良く含んでいて素晴らしい。

1992年の作品ですが、作中の舞台は昭和42年ですから、1967年のことですね。

つまり、村上龍の『69 -sixty nine-』や村上春樹の『ノルウェイの森』を見れば分かりますが、二階堂蘭子と黎人はそれらの登場人物とほぼ同時代人ということになります。

まだまだ家というものが厳然として存在していた時代。本格推理の舞台として、面白い設定と思います。

二階堂黎人作品以外の新本格推理の作品群は、僕は綾辻氏と森氏(とはいえ、森氏は綾辻氏から一歩別のジャンルに踏み込み掛けているけど)などが作中と外の時間が近しいのに対して、二階堂氏は過去を舞台に選び、そしてしっかり成功しています。(森氏といえば、蘭子と萌絵の類似性については絶対どこかで評論があると思いますが、むしろそこは紅子もからめて比較すると更に面白そうです。)

ただ、この時代もすでに40年も前のこととなってしまって、当時の感覚を理解するのはどんどん難しくなってきています。10年前ならばまだ、親の世代ということで20代も理解できたでしょうが、これからの20代はちょっと理解できないかもしれません。

本格推理は小説中に閉じられた空気を作ってしまうのでそういう時間の流れの影響は受けにくいですが、少しそういう時代性は気になる問題ではあります。

さて、この『地獄の奇術師』を読んでいて気がついたのですが、ミステリを読みなれてくると推理が効率化されてしまいますね。すぐに犯人が分かってしまう。

新鮮さが失われてしまうわけです。

僕が思うに、ミステリは過去の有名どころから順番に読むべきですね。伝統的なパターンとかもありますし。

ポォの作品とか僕はまだ読んでいないんですよね。

乱歩作品も、エラリィ・クィーンもそうです。新古書店に無いからなぁ。

クリスティは一時期ハマって図書館で8割がた読んだのですが、ミステリブームはクリスティでいったんお腹いっぱいになってしまって鎮火。以後、『すべてはFになる』で衝撃を受けるまで潜伏期があったわけです。それで、新本格を読みはじめてそれらが過去の作品に言及し、それらが古典を意識した構成になっていることに気付いて、紹介されているものを読もうと思い始めました。

そういう意味で、この『地獄の奇術師』の註釈は遠慮がなさすぎだろう、と。

ネタバレしすぎですよ。

ま、いいんですけどねぇ。多分、読まないし。ネタバレしたから。

新本格はこういう形で歴史的な層を形成しているようです。

これは、ミステリに入ったばかりの人に新本格の古典を適切にネタバレなしで紹介するガイドブックになるミステリ小説が必要だと思いました。二階堂氏ならば書けるんじゃないですかね?

読後感想としては、『鬼流殺生祭』で物足りなかったどろどろ感が補充されて大変満足でした。