村上龍『限りなく透明に近いブルー』講談社文庫/読書感想

トリップ小説(お薬的意味で)

入院しておしまい

地の文に語り手も第三者も溶けてしまっていることが多い。

しかし、きちんとセリフが分かれている部分もある。

それは、麻薬によって自己の境界が不明確になっている状態と、そこから覚めて自己が戻った状態とを連続的に行き来していることを示しているのだろう。

しかし、自己を取り戻したところで感じるに足る現実は無く、現実感の無い浮遊感は維持されたままだ。だから、ずっとものぐるおしい異常な生活の描写は続く。

麻薬で知覚が偏っているのか、物体を知覚する描写は多いのに、コミュニケーションに動く心情の描写はなされない。感覚は鋭敏で肉体は反応しているのに、精神が鈍磨してしまっている。

狂気を抱える無軌道な若者が示す行動が描写されている。しかし、そこには精神が無い。

それが不満足なところ。

翻って現代。

こういう無軌道は今も存在するだろう。

しかし、主流ではない。

狂気を外的要素によって活性化して自壊するのでなく、狂気が十分に蓄積して狂気だけで自壊する、そんな作品が増えていっている。

加速して摩滅する薬物よりも減速して圧縮する薬物が使用されることが多い。しかし、破滅の形式はあまり変わらない。

幻聴、幻視、身体感覚の変調、性行動の無軌道化、食欲・睡眠欲の低下、時間感覚の喪失、暴力への無感動…などなど。

それが何を意味するかは分からない。

しかし、狂気への過程は時代によって多様化したのだと思う。

僕が知っているのは、現代は麻薬抜きでもバッド・トリップできるってことだけだ。

限りなく透明にちかいブルーな人間は、そこかしこに潜んでいる。