伊坂幸太郎『オーデュポンの祈り』新潮文庫/読書感想

なんとシュールレアリスティックな小説か。

…と、解説への皮肉から書き出してみる。

解説の吉野氏のシュールレアリスムへの理解が間違っているような気がするんです。

自信無いですが。まさか、そんなことは。

"Surrealism"は"sur + real + ism"と分解できて、"sur"を「超」と和訳できる。

で、その「超現実」とはなんなのかを説明するために自身の体験として「交通事故に遭った時にスローモーションでぶつかる瞬間が見えた」という例を挙げているのだが、これは間違っていると思う。この体験談は、「超感覚」であって「超現実」ではないと思う。

シュールレアリスムは、フロイトの影響を大いに受けて、夢がそうであるように無意識的な脳の活動を駆使することによって、日常における意識(常識といいかえてもいい)の影響を排した現実=超現実を捉えようとする創作活動の形式のことであると記憶している。

現実を普段とは異なる角度から見るために、現実を裏返してみたり、時計をゆがめてみたり、現実と異なるものを仮想することによって却って現実を浮き立たせる創作活動。

あの解説は、シュールだと思います。

さて、この『オーデュポンの祈り』はそういうシュールレアリスティックな小説と思いました。

ただ、作者自身にそういう自覚があったとはあんまり思えなかったです。

シュールレアリスムとしては「超現実を描くことで現実を問い直す」という態度に欠けていると感じたからです。だから、舞台は超現実的に見えるが、大部分は現実に常識に即していて(そのおかげでミステリの世界に踏みとどまれているのですが)、だから、シュールレアリスティックな効果が弱まっていると思います。

また、幻想的とも違う気がするんですね。

幻想物語というのは、現実に敗れて幻想へと逃避し、幻想を通じて現実を学び、幻想が覚めて現実へと帰還し、そこへ再適応するという過程が重要なのです。

本作では、その帰還が描かれておらず、よって幻想物語でもない。

僕は最初これは「たりないもの」といい、『オズの魔法使い』なのかと思った。けど違った。

結局、ミステリというジャンルに漂ってくるわけですが……。

ミステリ…なのかなぁ?

謎はある。

でも、「名探偵決定論」を引き出されちゃうと、それはアンチミステリへの逃亡でしかなく…さりとて、そっちへ突き抜けているわけでもない…。

ミステリというのは、「十則」とかに言われているけど、作者と読者には作品の論理性についてある種の暗黙の了解があって、これはそれを満たしているとは言いがたいと思うんです。

(そういうのを立て続けに読んだ個人的心情ってのもあるんですけど)

時代錯誤感ってのも、21世紀の現代からクリスティの、しかもオリエンタルものを読むと、こういう幻想的な印象はあるしね。歴史ミステリってのもあるし。

なんだか、ジャンルもふわふわした作品です。

でも、なんとなく、ま、おもしろいかんじがすると思います。

初心者におすすめ?

それにしても、「たりないもの」の答えには不満があるなぁ。

僕は、それは絶対になくならないと思う。

というのも、猿なんかもそうなんだけど、それの素地は遺伝子レベルに刻み込まれていて、いつか、必ず誰かが見出すものだと思う。

なんか、ああいういい加減な世界に憤慨するのも馬鹿らしいけど。

ぽっぽっぽー はとぽっぽー

とかな。

あと、カオス理論の理解がなんか変な気がした。

気のせいかもしれんけど。

ま、「カオス理論」という名のマクガフィンという解釈が正しいのだと思うけど。

それから、城山って18禁エロゲの陵辱モノの主人公みたいな奴だな、と思った。

なんか、そんな感想。

(081105追記)

そういや全てを知るかかしの神様って日本神話の神様だね。「古事記」を読んでいて見つけて、なんとなく以前にそういうかかしの話を聞いたことがあると思っていた。失念していたのがちょっと恥ずかしい。そういう細かい何か元ネタというか知識を感じさせるのが、また良いところだと思うのです。

さて、かかしの神様の名前は勇午ではないけど、名前はどこからとったのだろう?気になる。