清涼院流水『ジョーカー』(清・涼)講談社文庫/読書感想

ジョーカー 旧約探偵神話』の文庫版として『ジョーカー 清』および『ジョーカー 涼』へと2分冊されています。

この作品は、同じJDCモノである『コズミック 世紀末探偵神話』の文庫版である『コズミック 流』と『コズミック 水』の2分冊と、『コズミック 流』⇒『ジョーカー 清』⇒『ジョーカー 涼』⇒『コズミック 水』の順(つまり「清涼IN流水」の順)で読むとある仕掛けが浮かび上がるようになっているそうです。

が、僕は普通に『コズミック』→『ジョーカー』の順で読みました。

感想⇒降参です。

読む順番としては、僕が読んだ順番は最悪でした。

最低でも『ジョーカー』→『コズミック』の順に読むべき。

もっと言えば、作者が提示している順番がやはり一番いいのかも。

しかし、作者提示の順だと、最初の『コズミック 流』がすごい退屈なのには変わりないのですが。

その意味では、『ジョーカー』→『コズミック』の順ならある程度免疫がついているので苦にならないかも。

っていうか、その「免疫」ってのもある意味「免疫」がつきすぎてミステリ全般が効かなくなってしまいそうですが。

うーん……。

この真相は、評価が難しい。

しかし、すごいことはすごい。というか、すごすぎて呆れる。

そして、この結末ゆえに、九十九十九以上の名探偵は存在し得ない、ということになる。

九十九十九を発想するまではともかく、それをしっかりと描いているという点で出色の出来である。

アンチミステリとして絶対の安置へと到達したと言わざるをえまい。

なんていうか、異次元殺法だね。

うーん……。

結末まで”読了”して考えたことはひとつ。

僕は3年前にこのブログで「推理小説の楽しみ方」として、「犯人当て」をせずに読むということを書いています。

「しっかりとした推理を構築するための読み返しの作業が面倒なのが理由の一つ。

理由の二つは、展開をヨミだすと、折角作者がひた隠しにしてきて、「どうだっ、こいつが犯人だぞっ」と盛り上げる展開を素直にびっくりしてあげられないからです。

で、ぼんやりとしか推理せずに読み進め、

「あ~っ、そっかあ、やっぱそいつかあ。解りかけてたんだけどな~。惜しかったな~。」

と、ヘイスティングスよりも若干うわてになった気分で読むのが好きです。

当たり外れがない楽しみ方でね、絶対失敗しませんから。」

……とまあ、こんな具合に。

さて、これは作中の地の文でも指摘されているように

 推理小説の『読者』の中には、漠然と真相を予感していただけなのに、自分はトリックを見破っていた!とオメデタク勘違いなさる方々が多くいらっしゃる。(中略)

 なんとなく予感していたとはっきりわかっていたの間には百万光年以上の開きがあることを、彼らは知らないのだろう。そんなこともわからずに自分の能力を過信するのは、無知を通り越して罪悪に近いものだ。……犯人や『作者』たちに失礼だろう。

というものに、似ているようで少し違う。

それは、読者はあくまでもヘイスティングス以上の存在になることはできないということを無意識的に悟っていたのかもしれません。

ま、どういう予防線を張ろうとも両方読んだにもかかわらず作者が提示する順番で見えてくる結末というのがいまいちよくわかっていない自分は間違いなく愚図。

読んで欲しい。けど、それは、ミステリの有名どころをある程度読破してからであるべき。

そして、ミステリとは何なのかを考えてみてほしいです。