太宰治『斜陽』新潮文庫/読書感想
女って、怖いな、強いな、美しいな。
そんな感想を持った。
この「斜陽」というタイトルがすばらしい。
主たる語り手である「かず子」と「かず子の母」、弟の「直治」、そして「上原」この四者四様の斜陽がこの作品には描かれていて、それがそれぞれに力強かったり、美しかったり、はかなかったり、苦かったりする。
母は一定して、美しく、温かく、輝かしい残照とも言うべき斜陽を体現し、そして弱弱しくも貴さは失わぬままに沈んでいく。
直治は、やけっぱちに燃え盛るさまを見せていたのに、そんな母の落日を見ると、まるでつるべ落としのごとくにあっけなく沈んでしまった。
上原は、ほんの少ししか出てこないけれど、彼も黄昏だとかのたまい、沈みきれない冬の太陽のようにぐずぐずと闇へと沈みつつある。
最後に、かず子は、彼女がほかとはまったく異なる。
ずっと、ゆらゆらとただれるようにくすぶって、焼いた蛇のことを気に病んだり、恋文を書いたり、煮えきらぬまま、母の死に自己への暴力的な革命を志し、そして、それらが破れてしまう。そして、破れてしまって、それで輝きは弱まっているのに、なお子を宿すことによって、まだ終わらない、沈みきらない。ほとんど沈んでしまって、しかしそこから翌日の陽となることを予感させる強さを見せている。
そういう、人間の人生の終盤の、斜陽の輝きのような、尽きることない熱量を感じた。
というのが、現代に生きる僕の感想。
なのだが、
当時、没落する上流階級を指して斜陽族と呼び、斜陽に没落の意味が加わったとのことで、うむむ、それは、なんだか違うのではないかと思った。(Wikipedia「斜陽」の項より。しかし、この記事の『斜陽』のあらすじは上手くないと思う。或いは僕が勘違いをしているのかもしれないけど)
『桜の園』は読んだことがないので、それに対抗するものを書こうとした太宰の意欲とその結果とを批評することは難しい。しかし、これは没落の美を描き損ねて、それで傑作になったのだと思いました。
※後に読んだ『櫻の園』の感想はこちら→「チェーホフ 作・小野理子 訳『桜の園』岩波文庫」