普通の人/種々雑感

「普通の人」とは、ある個人の中でのある限定された場面ごとの人間行動の最頻値―いわゆる「普通の行動」―を寄せ集めて構成される架空の人物像である。

それはあくまでも経験則であって、普通のしきい値は最終的に個人の経験に依存し、集団に共有されるにしてもその集団の経験に依存する。

ある人物が普通であると評される場合、それは実は「会社では」とか「通行人としては」とか「授業中の学生としては」とか、そういう限定条件が省略されているのである。

普通とはこのように限定条件下での比較から認知されるものであり、場面を限定しない総合的評価は、種々の場面での幅を持った「普通」の範囲の中での些細な相違の蓄積から「特殊である」という結論に落ち着くだろう。全てにおいて完全に普通であることはそれ自体が異常であるだろう。

普通であることを嫌悪したり、普通でありたいと願ったりすることは、実は何か特定の分野、場面でのこうありたいという自身への願望であって、そのまさにその分野、場面以外の部分で普通になることでは解決できないこともあるだろう。

普通とは他者との比較であり、社交経験がその土台となる。ゆえに、普通を共有するには社交が必要だ。社交のためにはある程度自身のプライバシーを開放する必要があり、その分別がまた普通を形成する。

逆に言えばコミュニケーションが減ると普通が無くなるのだ。

それは特殊を自認する人物には有利な条件となる。

そんなことを考えた