「老い」の認識/侏儒雑観

発展途上国に関するドキュメンタリーを見ていると、いずれ養ってもらうために子供を産むという意識があることに驚く。

この自分自身の驚きに対していまさらながら違和感を覚えた。

ヒトは老いる。

そして誰かの助けを必要とするようになる。

その助けを肉親の情に求めて、子供を育てるのではないか?

社会性の低い動物においては、社会性に本能が勝り遺伝子の乗り物として子孫を残すことそのものの目的として子供を育てると解釈することはできよう。しかし、こと社会的な動物である人間においては、そういう意味を超えてある種打算的に自身の長命のために子供を育てる部分が生じているはずである。

このような意識は近年の若い世代ほど薄まってきていたように思う。

それは90年代より老人介護問題が報道で取りざたされるようになる中で、壮年世代は介護を必要としない“アクティブ・シニア”を目指し、若者に世話にならないと放言してきた。今でも「アンチエイジング」「抗齢」などの言葉が取りざたされている。誰もが老いて誰かの世話になることを恐れている。

このような社会的認識の中で育った今の若い世代。僕らに支配的な考え方は「どうにかして貯蓄をして、子供の世代に迷惑をかけないか」にあるように感じる。それは国の借金を背負っていく世代としての悲壮なまでの覚悟とも見える。その裏返しは、「貯蓄ができないようならば子供を作ることはできない」という意識であり、その意識が子供を育てることへの慎重さにつながり、出生率の低下をもたらしていると考えることもできるだろう。

そういう自立的な志向が、親と離れて住んでいる20代にあり、親になってから子供と一緒に住もうという意識は芽生えないのだろう。

そういう20代を経て、30代になって父母や自身の老いを意識するようになり、子供が欲しいと考えるようになる夫婦は案外多そうな気がする。高齢出産の傾向は、産科医療の進歩もあるが、そういう背景もあるのではないだろうか?

ただし、しばらくすると老老介護の悲哀が報じられるようになり、20代でも老後のために子育てという意識は復活するかもしれない。

それは数値的な予測では分からない実事例を目撃することによる実感だろうと思う。

僕らの世代はそういう老人介護の現場を、父母の田舎から離れることで体験することが少なすぎた。

もちろん、この意識の問題とは別な要素もある。

食料自給率の問題は日本の人口が少しぐらい減った方がいいという意識へと向かわせているかもしれない。

子育てが大変だという認識は子育てを始めてから実感できるものであり、出生率が上がらないのにはむしろ子育ての楽しさを知らないことが重要だろう。

身内の子供から自分の子供を想像する機会があるかないかというのは大きいと思う。兄弟姉妹が減り、いとこやはとこが集まることが減った近年ではそういう機会も減少しただろう。

そういう実感の問題は大きいと思うな。