近視眼/侏儒雑観

ガソリンがまた高くなるって。

車に執着が無いから僕は関係ないんだけれど、一般財源化するにしてもこういう「取れるところから取る」というような税金の取り方はうまくないなぁと思う。

福田総理は万事この調子で、近い順に八方に当たり障りが無いように動いているように見える。

そして、その結果として彼の中で一番縁遠い国民の反感を得ているのではないだろうか?

官房長官時代の発言が面白かったので、もっと切れる人かと思っていたのだけど……というより、安倍氏よりは切れて欲しいと思っていたのだけれど、人の下に在ってこそ活きる人だったとは見抜けなんだ。自らの不明を羞じるなぁ。

こういう風に、何事かの批評あるいは感想を呈することは、常にその瞬間の知性の限界を外部に示すものである。つまり、批評者はその批評によって既に逆に批評されうる存在になっている。安全地帯など存在しないと思うのです。だから、例えばそれが単なる感情的な好き嫌いに終始していたとして、その筆者は感情的であるという批判に対して自覚的であってしかるべきだと思いますし、自覚的であるための通過儀礼としてそういう批判を受けておくにこしたことは無いと思います。

「畑違い」が自重するべきかについては、それは単に「一道万芸に通ず」という認識をあまり広く適用し過ぎているからではないでしょうか?そして、その結果として一芸に秀でた人が万芸への意見を求められる。そして、そのシーンでも威厳を要求されている。その姿が歪な気がします。

本当に優れた技術者は自分自身の能力の限界を知っており、不相応な行動は慎むものです。その達人と未熟者を見分ける技術が視聴読者に不足していることも一因でしょう。

僕について言えば、例えば野球についてエラそうなことを書いていますけれど、それは野球を楽しむファン文化の中でこういう「素人解説」をぶちまけまくることが一般的に「よくある話」だという自覚があるからこそ無責任に書き散らしています。この認識を共有できない人に対してはこのブログが明らかに個人ブログであることがエクスキューズになるとも考えています。

ただ、それも僕の独りよがりの見解なので否定されることがあるかもしれない。されないかもしれない。

でも先んじて考えているかどうかはそうなった時のためになると思っています。

日常だって、どんな発言にも批判の可能性は存在する。

匿名性がある程度確保されているとは言えネットには存在しないとか思っている人は、ちょっと甘いと思います。むしろ、匿名の批判者が無数に存在するからこそネットの方が怖い。

現実なんてせいぜい声が聞こえる範囲がほとんどだろうし。

既存のメディアに参画している人たちにとってはネットでの発信と既存メディアでの発信は印象は広く発言するという意味で同じなのに、反響の出方が大きく違って否定的意見が激増したり、妙にフレンドリーなものが増えたりしているように見えて違和感があるのだろうと推測する。そしてその違いの原因が匿名性に見えるのだろう。

一方、視聴読者にとっては、受信における印象は同じで、感想も同じなのだけれど、表明に用いるツールの気軽さが段違いにネットの方が楽。それはツールの違いとして認識されていて、仮に感想を葉書で送るにしても匿名性が存在するのはネットと同じと思っている。この認識の違いが匿名性の是非の論議が平行している理由ではないのかと思った。

で、何らかの分野に関する開かれた議論においてどうも不味いと思うのは、それぞれの専門分野にジャーゴンが多すぎるということだと思う。

専門分野にはそれぞれの歴史的経緯があって、それに伴って専門用語も数多く蓄積されてきているのは理解できるのだけれど、同じ分野の玄人同士での議論では無い場合にはその場に相応しい用語を心掛けることがコミュニケーション上の共通ルールではないのかと思います。

20世紀のあらゆる科学分野は細分化―先鋭化?―を遂げた結果として、お互いにブラックボックス化を進行させてしまったように思います。ここ10年くらいは際学的という言葉が叫ばれるようになりましたが、まだ足りない。この際学的というムーブメントは、実は学者だけでなく一般の市民にとっても重要だと思います。広く社会を理解することで政治的な方向性を決定するための一助とする意味で。

例えば、死刑判決の妥当性に関する議論や、裁判員制度への不安など。

本を読めばいい、勉強をしろと言うのは簡単だけれど、全ての人が同レベルになるのは不可能でしょう。ウェブでの言論としては専門家の方が解り易く解説してくださるとうれしいけれど、それも努力による付加的な意味が強くて広く一般的な広がりが必要な知識に関しては限界はある。

そういう不安が少し多すぎる現状に対する回答は、中学・高校における工学(金融工学を含む?)や法学の基礎の習得ではないかと思うのだけれどどうだろうか?

歴史を教える必要はある。しかしそれは現代社会を理解し、未来を推測する材料として学ぶのである。

科学を教える必要はある。しかしそれは現実社会の種々の構造物、現象を理解するためのものである。

僕が1980年代末に使っていた小学生の教科書には少しはそういう意識があったように思う。しかし、そういう気配は次第に薄れていって、詰め込み教育へとなっていった。それは高校が高等な学府としての地位を持っていた名残であり、また、受験戦争の結果なのだろうけれど、社会の成熟とともに基礎教育期間が長期化したと考えるならば、中学・高校で基礎的な社会の仕組みをより高度に教え、大学から専門化するというこれまでよりも高位の連携を図っていくことは社会の要求に適っているのではないかと思う。

とにかく、今は社会の仕組みについて教えるタイミングがなさすぎるのだと思う。

派遣社員の問題とか、つまり社会はそれをどこかで教育する必要があり、学校外がそれを負いたがらないのであれば学校に着せるしかない。そういう状況。

これに限らず短期的な不経済を押し付けあうことによる全体の非効率化および閉塞感、これが日本の現状だと思う。

よろよろしたけど、最近はてブを見ながらそんなことを思った。

すっかり話が長くなって自分でもよく全体が認識できない。

でも、僕の総体としての理解はそんな感じ。たぶん。

それは書くことによって自分自身の理解を助けようとする欲求が強すぎるからなんだろうな。

ツッコミは外注かよ!?ってわけではなくて、ツッコミは未来の自分待ちです。

こそこそ追記したり、削除したり。34件が欠番になりました。

(ほとんど自分に向けて書いているのにこれだけの公開度ってのはリスクが高すぎるかもしれない。)

でも、意味があると信じたいんだよなぁ。ここに著した僕が社会的に意味があると。