ナルシシズムの低位安定について/小人雑感「ニンゲン」

誰だって自分が好きだ。

しかし、その自分が好きだって言う時にどの部分が好きかという点について、人は注意深くあらねばならないだろう。

子供のうちは、能力が低く誇れる所は少ない。それでも自分を好きでいられるのは自分の可能性を好きでいられるからだ。将来の夢を持ち、いつかそれができるようになること、その未来が好きでいられるから自分を好きでいられる。

時にはその夢は非現実的な所まで広がってしまうこともあるだろう。仮面ライダーのように強くなるのだとか、アイドルになるのだとか。それは、憧れの存在と将来の自己とを同一視することによって、つまり憧れの存在を介した仮の自己愛であると言ってもいいだろう。

それらは社会的役割について、過大な幻想を抱いていると言うことだ。世界に対する影響力を持つ個でありたいという幻想。しかし、次第にそういう幻想から人は覚めていく。

中学、高校と世代が上がるにつれ、社会的能力は次々に明らかにされて行って、そしてそれは社会人になるに至って資質を確定されることとなる。

ここまでで人は子供時代の「夢がある自分」ではない、もっと違う自分を好きにならざるを得ない。自分の能力をしっかり見定めた上で、その自分の能力を好きになるのである。

自己の能力とは過去に根ざすものであり、取り返しがつかないと言う点でとても直視するにはつらいものがある。あの時ああすれば、この時こうすれば、そういう後悔はつきものだ。しかし、そこに幻想を持ち込んでは仕事に支障が出る。それが社会人なのである。

この過去の評価とは未来を信じる子供時代とは全く逆の視点である。しかし、この視点の切り替えが重要なのだ。

もちろん、人の成長は終わりが無く、人生を通して勉強は続くものであるが、社会人は自己の能力を適正に評価してこれを元手に生計を立てる活動を行うことが生活の中心であるもので、その点で学習が生活の中心となる子供とは大きく異なっている。そして、それがそのまま大人の条件であるのだろう。

この自己の実像に基づいた自己愛は真の自己愛と言えるだろう。

初恋は実らないと言う。

それは子供の恋愛において人はその子供らしさの習いとして憧れの存在と自己の願望とを混同してしまうからだ。しかし、その憧れの存在にもその人が考える所の自己の姿と言うものがあり、そこにはギャップが生じる事が多いだろう。だから初恋は実りにくい。十代の恋愛と言うのはそういう苦しさを持つ。逆に大人の恋愛とは、もっと地に足がついた、身の丈どおりの恋愛模様と言うのが望まれているのだが……ま、そこは恋愛、許しあえる存在を求めるばかりについ子供っぽい願望をもちこんでしまいがちで、なかなか大人になれない。

……ま、要は僕は自分に失望したってことです。

いつもいつもぽやぽやと夢ばっかり見て、地に足が着いていなかったですからね。

はぁ……久しぶりにブログを書いたような気がします。

常に今この瞬間よりも若かった頃の自分を抹消したい憂鬱気分ですが……。

だが、それは全体の方針としては望ましくないので、頑張らなければならない。

このブログを維持し、過去を踏み越えて行くのが最低限の器の証明だと考えた初志の名残なのだから。そして、過去を共有できる者こそが共に歩むべき者だと考えるから。

そういう自己愛の形式(モード)が今の私。