心象風景/自己言及
昔このブログにこんなことを書いた。
今は。
光は感じる。
しかしそれは背後に在る。
光は背後から進む先、漆黒の闇へと投射されているのだ。
遠くに行くほど光は弱まって、そこに何があるかは微かにしか見えない。
でも、現実にはそちらが進む先なのだ。
光が指すほうへ、進む。
朧で不確かで幽かな、むしろ暗闇に満たされた空間へ進んでいる。
そちらが夢へ向かう方向だと光が指し示している。
2005.06.29「光の指す方へ」
2年半前の心象風景を描写した文章である。
この過去の例に倣って今を描くとすれば、
今は昼で、そして僕は陸路を行く。
目的地は遠く、まだ目には見えない。
しかし、道は確かで、僕は頼りないながらも地図を持っている。
足元はしっかりしている。風が強いが天気もよい。
今は森を進んでいる。起伏がほどよい負荷として感じられる。
そう、思い描く。
思いつくままに心に浮かぶ絵は、本人が自覚していない事象を説明していることが、ままある。そして、それは過去と現在の対比によってようやく認識されるものだ。
二年半前、僕は海路を思い浮かべていた。背後の光は灯台であり、嵐の夜の心境であった。
背後からの光とは、過去に持った希望を頼りに行くということだ。嵐の夜の海とは、行方は定かでなく、足元も不確かであるということ。
そして事実、帆は張るものの操帆・操舵はほとんど為されずに、ただ流れに乗って流されるままに2年半を過ごすことになった。
それが今は陸路で、よく晴れた昼の森を行くイメージになったのは、あの時よりはいくらかマシになったということだろうか?マシになったのだと信じたいものだ。
あの深淵は今は無い。
もうすっかり浅くなり、
流れ出す水源となっている。
わだかまる者も見る影も無く、
汀が退って干した土に若木が芽吹いている。
あれは深い森に隠れていたがそもそも高い山であった。
知らずに上り詰め、深く閉ざした孤独の山だった。
消え失せたのは深淵ではなくて、
それを深みたらしめていた山であった。
山は低くなり、
よって水は流れ出し、
然るに深淵はただの泉となった。
森も鬱勃たるものではなく、
ずいぶんと刈り込まれた。
ここはすっかり変わってしまった。
そして、その方が正しかった。