いつだったか書いた/文散
いつだったか書いた憶えがある。
だが、思い出せない。
“私は私の中心に私を据える必要がある”
私とは何なのだろうか?
何をするために生きているのか?
果たしてそれは必要とされている事なのだろうか?
私は必要な歯車か?
私がいなくとも世界は回る。
人は人を忘れる。
他人も自分もみんな、みんな。
そうやって全てが無くなってしまったら、何にもならないじゃないか。
だから人は自分を中心にして世界を組みたて始める。
自分を必要とする人。
自分がいなければ回らないもの。
そういうものを作って自分をつなぎ止めていく。
それが生産と言う行為なのだろう。
僕は何か生産して来ただろうか?
僕は何かと繋がっているだろうか?
信頼と言うラインで繋がったからくり。
全世界に広がった網の目。
その要素の一つとして僕は存在している。
僕ら現代人の茫漠たる不安は、
その所属する組織の膨大さの中で自分を見失うことに原因がある。
昔は、居られる場所の余裕が限られていて、
そしてそこを失ったらすぐそこに死があった。
今や僕らは優れた医療による生の壁に逃げ場を奪われて、
どうにかして居場所を見つけるように強制されている。
そして、誰かの居場所に割り込んだり、押しかけたり、奪ったりしている。
その衝撃が、その隣の人へ、隣の隣の人へ、隣の隣の隣の人へ、伝播して行くことに目を瞑って。
「情けは人のためならず」と昔の人は言い、
そしてそれを「あなたの把握できないこの大きな組織の中を情けが伝播していつか帰ってくる」と解いた。
今はなまじっか組織の緊密さが把握できるばかりに情けが邪魔になってしまう。
人は増えすぎただろうか?
増えすぎたのだろう。
科学は発達し過ぎたのか?
発達し過ぎたのだろう。
ただ、単純には生きられなくなったと言う意味ではそれらは行き過ぎてしまった。
でも、いつだって人が生きようとすることに間違いは無い。
ただ、人は理性で以ってすべてをコントロールできる可能性を有すのに、
そうはできなくていつも感情で動いてしまうから、だから科学が似合わないし、人口が増えたなりに分け合って暮らすようなことができない。
感情の交換はいつも戦争だ。
平和と言うのは感情の共有だ。
感情か。
それが個性の中心だ。
世界はそれを中心にして、糸巻きが巻くようにお互いに引っ張りあっこしているんだ。
そしてどっかでプチプチ切れてる。
そして血が流れている。
ほどけにくい結び目を習ったことが無い。
いつも固結び。
けれどアレって解けやすいんだ。
そうして繋がりは失われていく。