「私たち」/カオス

「私たちってなんなのだろう?」

ってときどき思う。

でも自分でもこの「私たち」がどこまでを指すのかが解らなくて、困る。

私だけのことなのか、家族のことなのか、友人グループのことなのか、研究室のことなのか、バイト先のことなのか、土木業界?福岡市?福岡県?九州?日本?地球人?宇宙人?

どこまでも広がっていってとめどないのは、それは私が私を限定していないからである。

私はどれかにならなくてはならなくて、可能性のままで留めておくことはできない。

あるいはこの「私たち」というのは、その可能性として「私」が取りうる複数の未来の「私」を包括する時間的に根っことなる存在としての現在の「私」を指しているのかもしれない。

可能性のままで在り続けるという事は、量子論的論法だと「観測されていない」と言うことだ。

僕は現在社会的に観測されていない状態にあるから、この合致はとても面白いと思う。

何か認めてもらうということ、承認願望と言うのは、自己を確定する作業とイコールだ。

観測という行為には、向こうから積極的に働きかける走査というのもあって、発信→反射→観測という経緯を経ることもあるだろう。しかし、承認願望というのは結局こちらがわから発信して観測してもらうことを要求する。その二種類がある。(←自己完結)

先生は「周期なんて無いよ」と言った。僕はそれに衝撃を受けた。それが一ヶ月前。

私としては知っていたような気もする。だが、周期があったほうが楽だとも思っていた。感情の赴くままに、理性はそれが嗜好される時にのみ働かせるという状態の方が。ただ、楽な方に流されているのは人間として低質であるし、そろそろ周期について考え直す機会なのかも知れない。

…ということで、年末から試験的に理性を中心としつつごた混ぜ状態をなるべく維持して過ごしてみた。記事中の一人称も頭の中から流れ出すままに任せて、意識的に「僕」に校正する作業を行わなかった。「俺」と「僕」が同時に出てくる記事も3、4あったと思う。

で、結果はというと、意志は働くが相変わらず嗜好はぐるぐる回る。

クール→シニカル→マッド→ええじゃないか→ポエミー、みたいな感じ。

直感するに感情の消費状態なのだな。

皮肉って言うのは冷たい怒りだ。それが鬱積して本物の怒気になり、ストレスに耐えかねて達観へと転換する。で、楽観の極まりが感情の発露たるポエムで、ポエム気分が高まって絶頂に達した途端、事後の虚しさよろしく急にクールになって「俺…なにやってたんだろう…?orz」みたいな。

何にストレス感じているんだろう?

自分?あるいは社会?

しかし、僕と言う実体を考える時に、その所属する社会と切り離すことは不可能だ。

社会の一員としての自分とは?

それがストレスの原因。

社会及び自分の関係性そのもの、それ全体がストレス。

自分自身の複雑さと社会の複雑さの整合性を取る困難さ。

立体…いや、それ以上の次元(或いは要素)を持つ構造物として社会を捉え、その中に自分を位置づけようとしている不心得な自意識過剰さ。

もっと単純化すればどこに居るべきかが見えてくる。

一つの方向、一般的な視点から光を当てて見るといい。

お前は落伍者だ。

いや、落語者だ。

つまり、オチ担当。

このような情動の循環と言うのは多くの人間が有していると思われるが、僕はおそらくそれが激しいながらも表に出にくいのだろう。「普段は静かなのに急に感情的になる」という評価は、当人の空気が読めなさもあって普段は空気が良く解らないので静かに暮らし、感情の発露が許されそうな旅行やイベントになると気を許してつい…というパターンのせいであると思う。

多分、僕に必要なのは陽気になることではなくて、このわだかまりに出口を作ってやることだ。

そのためにこのブログのヒビ記以外のカテゴリは利用されている。

だから、このブログにはある意味では日常は描かれてない。

外の日常でなくて内の日常である。

それは、理解されることを期待していなくて、自分自身から吐き出すためにある。

そしてそれが間違っていたとして、指摘されて顔真っ赤になったら、でもそれは中におき続けるよりも僕にとってめっちゃプラスだ。

そして間違っていなかったとしたら(その可能性は低いけど)、それは僕以外にとってもプラスだ。そうなったらいいな。

でも、この日記はどこまでも散髪屋が掘った穴なのだと思う。

僕が日常で黙っているのに、このブログが勝手に触れ回って僕の頭がロバであることが知れ渡っていく。

でも、もしかしたら金のガチョウになるかも、と期待してたりもする。

淡い期待。

こうやって捏ねくり回していると自分がますます解らなくなってくる。

人間か、人間になりそこなった泥人形なのか…それを捏ねくり回しているのは自分自身か、それとも神なのか…いずれにせよ、僕は出来損なった。