恋愛観についてだらだら書く(上)/種々雑感
自由に書きたいから<続きを読む>以下に格納しておく。
キワドイ話題も出ると思うので、
読む人は「ああ、この人は変人なのだな」と思って読んでください。
恋愛の話の前に結婚の話を、結婚の話の前に子育ての話を整理しておきたい。
(僕は大きな話から細かく細かく話が千切れて行くのが好きだ)
女性には「母性本能」というものがあると言われてきた。
でも、それは本当なのだろうか?と僕は疑う。
純粋に曇り無い心境で赤ん坊を見ると可愛いと思う。それは男も女も同じ。
「純粋に曇りない心境」と断ったのは、悲しむべきことにそう在れない心の傷を後天的に背負わされてしまった人がこの世には割とたくさんいるからだ。
しかし、それはあくまでも後天的なものであって、先天的にはほとんどの人が―否、ほとんどの哺乳類が、赤ん坊に本能的に愛着を感じるように創られている。
そう思う理由は、僕らが動物番組で動物の赤ちゃんの出生シーンを見ていて「可愛い」と思える点に代表される。
哺乳類の赤ちゃんは、頭部が体に比して大きく、目が大きくて、鼻が低いことで共通している。これは単に未熟の象徴なのだけれど、性徴を経た個体はこのような赤ん坊に対して愛情あるいは保護意欲を示すものであるとものの本で読んだことがある(出典失念)。
つまり、人間がヒトとなる以前に、社会性を身につける以前からこれは育児を行う哺乳類が獲得した性質として共通しているはずである。
ただ、その発言には性ホルモンの影響が少なからずあり、男性はこの本能が発言しにくい、というのはあるかもしれない。
さて、昨今「萌え」ブームが来ているけれども、いわゆる「萌え絵(萌えの対象となるようなイラスト)」の特徴は、頭が大きくて頭身が低い、目が大きい、鼻ははっきりとは描かれない、と赤ん坊や性徴を迎えない未成熟な個体の特徴にずいぶんと似通っていることに気がつく。
そして外見年齢は16歳前後、あるいは以下である。
ヒトが成体として完成するのは、第二次性徴期を経た15、6歳ごろである。
源氏物語の光源氏と若紫のエピソードと「萌え」を比較した論を引用するまでも無いが、このような未成熟な子供に対して愛情を感じることはこの本能と関係があるのではなかろうか?
男性ホルモンは身体的男らしさと関係して、外向的、攻撃的性質やドライな心理と、また、女性ホルモンは身体的女性らしさ、ふくよかな丸みとウェットな心理に関係していると思う。
人は本能だけで生きてはいない。多くを知性で判断する。しかし、本能とは知性では量りがたいものだ。ましてや、精神的に未熟ならばなおさら。
人の感情はつまるところ「快・不快」の二種の感覚に帰せられる。そして、この「赤ん坊への愛着」という本能は促進せらるべきだから「快」の感覚を惹起するように仕組まれている。ところが「快」という感覚は楽しさでも惹起されるし、性感によっても惹起されるし、あるいは、度を越したとてつもない恐怖による不快を中和するために惹起されることすらある。そして、人間はそれを知性で誤解する。これは「性感」なのだ、と。
不倫の背徳感から来る胸の高鳴りを恋と誤解する事もある。
同様に、親としての子への愛情を示すための機能を、未成熟な個体への性愛と誤解することもあるだろう。
そこに、「可愛い」と「美しい」の間の隔たりがある。
男性は女性に対して、「可愛い」と言う。
女性は男性よりも丸みを帯びていて、小さい。それは、成体に対する未成熟の対比のように、男性に対する女性に対しての相似である。男性は上記の親としての子への愛情を示す機能が少し偏向し、配偶者への愛情へと変わったかもしれない。それが、配偶者への保護意欲をもたらし、結果として長命や育児の成功に繋がって形質として定着した可能性はある。
そして、この変化は女性には起きにくいはずである。なぜなら、角張った男性の姿と未成熟とには大きな違いがあり、それは性フェロモンの影響の方が男性に比して大きかったであろうから。
男性も匂いを重視しないわけではない、しかし、より視覚的な情報を重視しがちである。
女性も外見を気にしないわけではないが、男性よりも匂いなどの情報に敏感である。
それは、結局ヒトが社会性を益して行く中で、役割分担をしていくことでより補強されて行ったのだろうと思う。
そして男らしさ、女らしさの通念が生まれた。
本能以上に、女性は母親らしい役割を、男性は父親らしい役割をするようになった。
しかし、人の精神的成長には育む優しい母性と自立を促す厳しい父性とが、機能として存在すれば良く、母性が女性に、父性が男性に属している必要は必ずしもないと僕は信ずる。しかし、同時にこれまで述べてきたことの帰結から、母性は女性が持ち易いし、父性は男性が持ちやすいものなのだから、効率的にはそうあるべきであろう、とも考える。ただ言いたいのは両方が必要だということだ。
つまり、男性が働き、女性が育児をするというのは、機能的に効率がいいと思っている。ただ、それは女性に家に入れと言う意味ではなくて、例えば、狩猟採集時代には子育てをしている女性も子供を背負って果実や草花の収集に励んだような、育児の余力でできることをすることは健全であると考える。
そもそも女性はコミュニケーション、つまり他者との交流を好むものだから、家に閉じこもっていることは不健康な状態と捉えられるかもしれない。
それに、育児には母性だけでなく父性が必要であり、女性が同時に父性と母性という真逆のものを実施するよりは二者で役割分担をした方が負担は少ない。しかし、「父は働くもの」という通念の行きすぎた形が父性の欠如を招く結果となっていることは否めないと思われる。
…と、ここらでだいたい結婚生活の話に移っていたのを締めたいと思うのだが、
つまりは結婚生活と言うのは、二人でいる時間が必要なものだ
、ということ。
それが満足にできていない今の日本の現状は危険だと考える。
それで、最後に恋愛の話にしようか…というところで、もう長くなったから次の記事に分けようと思う。
ああ、でもこの育児と結婚の話が恋愛論では無いというのは間違いで、僕は育児も結婚も恋愛の延長線上であってその範疇に含まれると考えています。
死ぬまで恋しているって、素敵じゃないですか。
でも、逆は無いんです。
結婚を前提とした恋愛というのはおかしいと思います。結婚は恋愛のプロセスの一つであって、それが独立して存在すべきではないと考えます。結婚しなくても同棲するとか、そういう選択肢は存在しえると思うからです。もちろん、結婚が社会的な仕組みである以上、社会的には結婚したほうが有利となることは明らかですが(逆に言うと、結婚して子供をもうけることが有利となら無い社会は衰退するでしょう)。
「結婚したい」という人がいますけど、それが「一人でいたくない」という意味であるのならばそれは結婚とイコールでは無いことに気付くべきだと思うのです。
「子供が欲しい」も同様。子供が繋ぎ目となって想い人を縛ってくれると考えていると、子供はあなたも縛ることになるでしょう。
それらは過程に過ぎず、すべてではないと思うのです。
それを誤解すると、幸せな結婚生活は無いんじゃないかな、と推測する次第です。
解り切ったことを簡単に言っているように見えますが、「結婚」も「育児」も取りうる可能性のひとつひとつでしかないと言っているので実はフクザツだと思います。
僕は恋愛とはとてもフクザツカイキなものだと考えていて、だからこそ世の人々は「結婚」だとか「子供」だとかの特徴的な事象に単純化したがっているのではないか?とお見受けします。
…いったん切ろうと言ってからがまた長くなりました。
童貞の妄言は(多分)もうちょっと続きます。
その更に続き⇒恋愛観についてだらだら書く(中)/小人雑感