「ケータイ小説」の推定位置/侏儒雑感

ケータイ小説は情景描写が少なく、内容も稚拙であると言われる。

ライトノベルも同様のことを言われていたが、ケータイ小説はさらに手厳しい批評を受けているように見受けられる。

僕は、ケータイ小説や昨今の稚拙な文体の作品を見るにつけ、

「これは大人向けの絵本、あるいは童話だ」

と思っていた。

性的描写や暴力の描写があり、多少内容も複雑で長い。

しかし、筋立ては平明で、絵は無いが絵本、または童話に等しい。

そういえば10年ほど前に「本当は怖いグリム童話」などが流行したことを憶えてらっしゃる方は多いと思う。

あれは、結局は童話というものの本質に、「大人が子供に対して語るもの」というものがあり、多くは訓戒や人生訓であるが中には性的な暗喩を含む場合があることを示していた。

今のケータイ小説が性的描写や暴力表現を含むのもこの童話の暗喩的側面との比較によって理解し得ないだろうか?

あるいは、ハーレクインロマンスを対照に持ってきても良い。

極めて安直なストーリーだが、しかしレトロに見える割になかなか消えないカテゴリである。

より過激で、現代の若者向けにリライトしたものがケータイ小説ではないか?

「小説と呼ぶに値しない」という言説は空しい。

そもそも小説とは「大説以外のもの」を指している言葉であって、この定義からすれば絵本すら小説に含みうるだろう。

そもそも、読解力と言う観点においてこの論争は解決されるべき問題ではなかろうか?

人はその読解力の成長過程において、

絵本→童話・児童文学→一般小説→専門書・非母語言語の書物・古語の書物

という発展を経ると言えるだろう。

ここにおいて「児童文学」は、初期に目指された教養小説的作品のみではなく、販売戦略的に児童を対照とした作品全体を指し、ライトノベルも含むものとする。つまりこの順序だては、「描写の簡易さ」に注目したものであって、例えば性的描写など内容についての議論は度外視されていることに注意されたい。

書き方を細かくすれば、

1.「理解において絵本などの絵による助けを必要とする、あるいは必要とするであろう年齢を読者を想定して作られた書物

2.「読解力において未成熟な、およそ10歳前後を読者として想定した描写がなされている、あるいはそういう描写であると認められる書物

3.「読解力において平均的な能力を有する者、翻せば、平均的な読解力を得られるはずである所の義務教育を修了した者を読者として想定して作られた一般的な書物

4.「読解において専門の知識を必要とする書物。専門書」

ということになるだろうか?

ケータイ小説がその描写において、「稚拙である」という意見が多勢を占め、擁護する意見が「感動した」などの内容面に関するものが大半であることから、ケータイ小説は上記の読解力の発展段階の第2段階に当たるものと判断して差し支えないように思う。

さて、上記の第3段階の説明文において「義務教育」を引き合いに出したのは、このケータイ小説に関する議論において無視されがちだが重要な点を明示したかったからである。

それはつまり、一般の小説が理解されずケータイ小説が受け入れられる土壌として、第3段階への到達が不十分であるという教育上の問題を日本が抱えているのではないか?ということである。

ちなみに、第3段階に含まれる書物はその難しさも多用であるが、実際義務教育の目指すべき読解力は「辞書を用いることで様々な書物を読解できる」ものであるべきだろうから、努力しだいで読めない本は存在しない、という解釈であるべきである。そして出版社側の一般小説の編集の方針もそれに沿ったものであるはずだ。

それがケータイ小説のヒットに衝撃を受けているということは、つまりは義務教育の読解力育成の敗北の象徴ではないだろうか?

最後に、ケータイ小説を映画化するという行為は、それに絵を付け、音を付け、理解をしやすくするということだ。

かつて僕は「世界の中心で愛を叫ぶ」について、小説版を「惜しくも標準に満たない作品」とし映画版を「標準的に見られる作品になった」と評した。

情報が多いほど、作品の評価は曖昧なものになる。漫画に関しても同様のことが言える。

読解力という評価軸において、あらゆる表現は同軸上に載る。

難解な小説もあれば、難解な漫画もある。

問題はどこまで深読みできるか、ということ。そこに作者の技量が表れ、読者の知性が試される。

その意味においてケータイ小説は軽いものが多いのだろう。

そしてそれはただそれだけであって、批評自体は作品個々に向けられてしかるべきである。

よって、この記事におけるケータイ小説とは、ケータイ小説というムーブメントそのものを概観して括ったものであって、それ全体がすべからく「軽いものである」と言っているわけではない。

中には複雑なものがあるかもしれないし、きっといくらでも複雑に作りうるからである。

例えば、くだらない2ちゃんねるにも複雑な縦読み職人が居て、技術的には優れた(しかし内容的には下らない)縦読みをいくつも生み出しているように。

文章における技巧の優劣はその文章の長さに依存しない。

短歌や俳句がその好例であろう。

コンテンツもユーザーもまだまだ未成熟で、ムーブメントにはなっているがそれが文化にはなってはいない、ということだろう。

だから僕はこれについて良いとも悪いとも言わない。