全知全能の男/寓話

以前書いた「全知全能について/侏儒雑感」を別の角度から書いてみた。

こちらの発想の原点は、「何故自分はうまく物事を処理できないんだろう?もし失敗を無かったことにできたら…そもそも失敗しない存在だったら…そんな全知全能だったらどうだろう?」と高校生の頃に思ったことですね。

ですから、順序的にはこちらのほうが古い思考です。現時点での知識が盛り込まれていて当時よりも豊かであるとは思いますが、いかんせんテーマがベタなので社会的な位置づけにおいて新しさはあまり期待できません。僕の個性が現れていれば幸いです。

この思考実験の結果、僕は「特殊な人間にはならなくて良い、分相応に行きよう」と考えましたが……実践できているかどうか。自己同一性という狭い世界の中での特殊性と生存のための没個性という広い世界の中での一般性のすり合わせに苦しみ続けている現状。

ま、人間、自分自身を理解することも難しい不完全な存在ということですか……。

しかし、全知全能というのも難儀な存在だろうなぁ、とまた考え……。

むしろ、神話的全知全能の存在というのは、人知の不完全さによって信じられたものなのだろうな、と思ったりします。

……ま、そんなことはどうでもいっか。

長いですが興味をそそられた方は、さ、どうぞ。

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「ああ!なんでこうすべてが俺の思い通りに行かないんだ!」

ビルの屋上で男が叫んだ。彼は事業で多額の負債を出してしまったのだった。

そんな彼に後ろから声を掛けるものがあった。男が振り返ると、そこにはやつれた顔をした薄汚い男の姿があった。男はその男の姿にどこか見覚えがあった。

「なんだお前は?」男は尋ねた。

「俺か?俺は神様だ」薄汚い男は答えた。そして続けて言う。

「いや、神様なのだが神様であることにはもううんざりだ。そこで、お前にすべてが思い通りになる力、全知全能の力を譲りたいと思う」

男は彼を嘲った。

「はっ!誰がそんな世迷いごとを信じるかよ!おかしな奴だ。たしかにそんな力があれば魅力的だが、実在するはずは無い!」

薄汚い男は嘲られても憤ることは無かった。ただ静かに「ならば証拠を見せよう」と言った。

薄汚い男は力なく落としがちだった視線を目の前の男に合わせた。そして一言、「金」と呟いた。すると二人の視線がぶつかる中空から、札束がどさどさと音を立てて湯水の如く沸いて出た。札束は二人の間にうずたかく山となり始めたが、それでもその流れ出る勢いが止まる気配は無い。

男は数秒唖然としていたが、なかばは腰が砕けたように足元の札束の一つに飛びついた。びらびらとめくってすべて新札の一万円であることを見取り、一枚を抜き取って日に翳してそれが正真の紙幣であることを確認した。男は震える声で薄汚い男を見上げた。

「本当に、こんな力を俺にくれるというのか!?」

「ああ、飽きたのだと言っただろう?欲しいのか?」

「欲しいさ!欲しくないはずが無い!」

「では、譲ろう。手を出せ。握手が契約の証だ」

そう言って薄汚い男は手を出し、男は勢い込んでその手を掴んだ。

そして、男は神様になった。

神様になった瞬間、男は自身が眼で見ている以上に脳裏に全宇宙の情報が存在していることを認識した。それはとてつもない情報量であったが、彼にはそれが神様の生態として当然であることが既に理解できていた。その情報は過去のものだけでなく、未来の可能性のすべてを含んだ。この全宇宙の知的生命体のたとえ一個体がどう動くかという些細な違いでさえ、可能性の範囲として認識され、彼はその無限の可能性のどれを当面の存在時空とするかを選択することができた。これが、全知の能力であった。

彼は当面の存在時空をこれまでの自分の人生の延長線上に定めた。神様になった瞬間に、自分が宇宙の遥か彼方まで一瞬で旅することも可能であることを知ったが、現実に行く必要も無くその遥か彼方の情報も得ることができるので、欠片も興味を惹かれることは無かった。

彼は、屋上に山積にされたままだった札束を一旦消した。全能の彼にとって目の前のそれはいつでもどこでも出しうる物体に過ぎず、ここから自分自身であくせく運ぶ必要は無かった。気付けば先ほどまで神様であった薄汚れた男はその場を去っていたが、彼はその男への興味をすっかり失っていた。それにどこにいてもその男の存在、考えていることはこちらから知覚できる。

今や全ては彼の手のひらの上、いや脳髄の中で展開されていた。

彼はとりあえず自分の会社があるフロアに戻った。社員が自失気味にもはやほとんど意味を成さない日常の業務をこなしている姿に、彼は少し優越を感じた。自失することは無いぞ、我が愛すべき企業戦士たちよ!俺は宇宙最高の権力者となったのだ!お前達が苦しむことは永遠に無いのだ!

彼は悠然と自分のデスクに戻り、社内を睥睨した。そして、気だるげに自社の株式を高騰させた。社内の電話が一斉に鳴り出し、事業提携のオファーが次々と舞い込んだ。社員のやる気は向上し、さらに彼の全能の力によって彼らの能力は一流企業のエリート並みに引き上げられた。そして、会社はこれまでとは比較にならない圧倒的事業力を確保した。

一ヶ月が経った。

彼の会社は既に世界でも有数の企業となっていた。社員も、世間もこのサクセスストーリーに酔っていた。ただ、社長の彼だけは、少しこのマネーゲームに飽きてきていた。いくつかの慈善事業を企画・運用させ始め、一ヶ月前には唾棄していた社会福祉にも手を出していた。

金銭欲、名誉欲が満たされた彼は、次第により原始的な欲求の追求に傾いていった。

豪邸に住み、毎日浴びるように酒を飲み、美人と見れば見境無く愛人にした。

どれだけ食っても、どれだけ飲んでも、どれだけ荒淫の限りを尽くしても、彼の健康は害されることは無かった。何故なら彼は全能であるのだから。

そしてその相手を務める女性達もまた、一切美貌は損なわれること無く、また、肉欲に倦むことが無かった。彼らは全て麻薬よりも恐ろしい全能による、無限の精力に酔っていた。

また、一ヶ月が経った。

彼はその一ヶ月で動物的欲求の限りを尽くしてしまった。

そもそも、彼は料理を食べる前にそれを口にしたらどんな味がするか解るし、酒を飲む前に自分がどれだけ酔えるかが解るし、女を抱く前にそれがどんな嬌声を上げるかが解った。すべての快楽は予期されていた。

彼が精力を与える場合も、精力を与えようと改めて思って命じなければならず、彼はそれが面倒になって果てるままにするようになっていた。彼の周囲の人間達は、彼の意思一つでどれだけでも有能に、淫蕩にすることができたが、彼の意思無くば彼らはやはり欠点の多いただの人間だった。

ある日、給仕が女の足に躓いて転び、神となった男にロマネをぶちまけた。彼の心に怒りが兆した。そして彼は怒りに任せて言った!

「お前など消えてしまえ!」

すると給仕は消え去った。

彼はすっきりしたが、今の全ての経過を自身があらかじめ予期していたことも自覚していた。彼は女の足を引っ込めさせて給仕に失敗させない、給仕を殺さない未来を選ぶこともできたはずだったが、そうはしなかったのだ。それを彼は自覚していたが、しかし、彼の中でそれは些細なことだった。

彼の脳内には全ての宇宙の、全ての死と誕生が報告され続けていたし、未来の死と誕生もはっきりと認識できていた。目の前の給仕の死も、そんな無数の死の一つに過ぎないと感じられた。

またある日、彼は傍らの女に戯れに尋ねてみた。

「俺を愛してるか?」

女は答えた。

「ええ、この世の誰よりも」

しかし、男には解っていた。彼女が本当に好きなのは金であり、金によって着飾り、美貌をひけらかしている自分自身だということが。そして、彼女にとって彼は無限の、至高の金づるだという認識だということも。そしてそんな女はこの世に五億と居ることも。

彼はその女を消した。そして次の女を呼びにやった。

男は同じ質問をした。

「俺を愛しているか?」

女は答えた。

「はい、心から」

彼は知っていた。女のそれが本心であることを。しかし、彼には区別ができなくなっていた。さっきの女を消した時点で俺は俺を愛する女を求めていた。そしてこの女が現れた。それは果たして俺が全能の力によってここに呼び寄せた結果だろうか?それとも、本当にこの女はここにいてそして俺を愛するようになったのか?望まなかったといえば嘘になる。しかし、彼は彼の意思によらず彼を愛してくれる存在が欲しいと思った。しかし、それは彼の定義である全知全能によって存在不可能であることも解っていた。

彼はその全知全能によって、他者がどう考え、どう世界を知覚しているかを把握することができた。その人間の視点に入り込み、皮膚感覚を共有し、そして思いのままに動かすことができた。そうして他人の目から自分を見ることで遊んだりもした。他者は全知全能たる彼にとっては自身の体の一部に等しい存在なのだ。

だから、彼の与り知らない思考を持って、完全なる自由意志で彼を愛する女性など存在しないことは、彼にとって考えるまでも無く理解できていることだった。

彼は、すべてが虚しく感じられるようになった。

だがそれは、彼自身、こうなることが神様になった瞬間に理解できていた事態だった。

それでも、それまでの彼自身の来歴に起源する欲求を実現することを望み、そして実際に経験し、そして飽きるまでやりつくした。

彼は、やることがなくなった。

彼はその全知を尽くして世界を見渡した。

彼が止めさせた戦争の後にまた憎悪の種が発芽しようとしている様を見た。

彼はうんざりしてそこに何の脈絡も無く核爆発を生ぜしめた。それは既知のあらゆる物理法則にそぐわない現象であり、まさしく神の御業であった。数千の人間が一瞬で蒸発した。

彼は人が蒸発する様を見て途端に後悔し、早速彼らを生き返らせた。

ただの街の中心部で突如核爆発が起き、そして、なぎ倒された建物の中で生き残った人とリストをつき合わせてみると死者が居ないと解った時、人間達は混乱した。

物理学者は彼らの知らない何かの現象であるとして研究にやっきになり、医学界は生き残った人間達の健康状態を調べつくそうとした。政治家達はその街で秘密の核実験が行われていたとして非難決議を行い、当事国の首脳はただただ困惑して軍部の暴走を疑った。とはいえ、疑われた軍部は逆に政府側を疑っていたのだが。

彼はこの予想されていた一連の流れを見て、また一つため息をついた。全てが予想の範囲を超えない。なんて退屈なんだ。

それから彼は宇宙を彷徨った。

体はもはや必要なかった。どの座標に存在するかなんてことは彼にとっては意味を成さないことを痛感したのだ。自己への執着から理解はしていても実行する気がおきなかったのだが、彼は死んで身軽になることにした。彼の肉体は死に、周囲の人間は嘆き悲しみつつ葬儀を行い、そして遺産の取り分や後継者を争った。が、もはや彼にはそんな俗事への執着は失われていた。

彼は自由になって、ただ宇宙をあるがままに任せた。

先だって起こした核爆発は、結果的には遡及的に全能を顕現して、現象的には時間軸に対して垂直に可能性の次元を移動することで、全て無かったことにした。

そして、全てを物理法則に任せた。

とはいえ、その物理法則を変えることも可能だったのだが、物理法則を変えて世界が、人々がどう変わるかが事前にわかっている以上、その有意性を彼は感じなかった。

もはや、彼は何も感じたり、考えたりすることが少なくなっていた。

全てはあるがままに任せられて、そしてやがて宇宙が膨張しつくして冷え切ってしまう時が来た。

彼はやろうと思えば再びビッグバンを起こして新しい宇宙を生み出すことができたが、そうはしなかった。どうせ、またこの虚数空間が揺らいで、新しい宇宙が誕生するのだ。俺が自ら手を下すことも無い。

そう、彼の存在意義はもはや皆無だったのだ。

そんなことを、彼はビルの屋上から地面に達するまでに考えていた。

そして、全ては無に帰した。