11月1・2日:ケータイ/創作日記

1日は研究室に顔を出した時間のうち、2時間ほど中国の伝説上の生き物をウィキペで追っかける作業に充てた。

2日は調査のために筑後川に行ったので、その休憩時間に携帯で考えたことをメモメモしていた。

最近、電車内でメモ帳にGCCの概要というか、劇台本というか…絵コンテ感覚のものを書き込んでいる。

概要というには台詞が多いし、台本というには情景描写が詳細。しかも、重要な(ノッてくる)場面では描写が詳細になるから、むしろ絵コンテっぽいかな、と。あんま重要じゃないところは止め絵に台詞だけ、重要になると指示が詳細に…みたいな。

ただ、携帯に書いているってことで、ケータイ小説ってこういう感じだろうか?と漠と思うと、どうしても煮え切らない感情が湧いてきたのでここに書いてみる。

ケータイで書いてるとやっぱり描写が不十分だと感じる部分が多い。

これでは自分の脳裏のイメージを読者と共有できないだろうな…という実感。

以前どなたかのケータイ小説家さんの話で、「とにかく短く簡潔な描写になるよう心がけている」というのを目にしたことがある(wikipediaなら[要出典]がつけられちゃうくらい曖昧な記述だな(笑)。

これは、描写の一部を鑑賞者の想像力に任せて、表現者としての「自分の感覚を誰かに共有してもらいたい」という感情をある程度放棄している、というふうに僕には見える。

つまりこれが、作者の純粋な自己表現としての作品ではなくて、読者を楽しませるための作品という位置づけなのだろう。

この結果、

表現した作品が誰かに受け入れられて、それでご飯が食べられるのと、

誰にでも受け入れられる作品を書いて、それでご飯を食べるのと、

そういう違いが生じると思う。

ここで後者は、誰もに受け入れられるために個性的な描写やプロットを避ける、それが、作家の個性と対決することに慣れた鑑賞者であるところの愛書家にとっては「微温く」感じられるのでは無いだろうか?

とか、思った。

まあ、そんなイデオロギーの問題はさておいて、携帯の制限された文字数では僕は自己表現できたと満足しはしないから、携帯でメモったコンテをメールでパソコンに転送して肉付けしていくことになる。

…通信費がかさむし、貴重な読書タイムが削れる戦術だなこれは…控えるべきかもしれないかも。