大洪水/wonDeReRs
目を閉じて辺りを見回す。
すべてが水没し、世界は様相を変えてしまった。
遠きを眺むるに幾峰かの高山の頭がわずかに見えるに過ぎない。
しかし、水面は静かである。
水面だけではない。
空は青く澄み、雲は緩やかに流れ、風は暖かく爽やか。
高峰のかしらは緑に覆われ、その上を鳥が飛び、軽やかに囀る。
嵐は過ぎた。
僕は桟橋に腰掛けて、戯れに足先で静かな水面を打ち、徒らにささやかな波紋を起こしている。
陽の光が温かい。後頭部、背中、腕、そして頬。ぬくもりを感じる。
ふと、ぬくもりに誘われて心が動いた。
「さあ、船をだそうではないか!何のための桟橋か?偉大なる航海のためではないか!目標は明らかで、日和をもはや待つ必要も無い!最高の天気ではないか!こんなところで座り込んでないで、早く旅立とう!」
ポジティブな思考が立ち上がり、手を高く空へと向けて掲げ、前へと動き出そうとする。
しかし、立ち上がり光を掲げる者があれば、おのずと影が差す。
ほら、まさに影が堕ちてきて、肩に掛かり、頬からぬくもりを奪った。
「船を出す。どちらへ向けて?」
影が疑問を差し挟む。
彼は積極性のカウンターウェイト。慎重さの権化。
「夢と、愛とだ」
光はいつもまっすぐだ。
「これはこれは青臭い。こんなに青いとは、よほど日にさらされずに生きてこられたと見える。良い実が熟すには日の光が重要ですからな。青い果実は実際としてあまり美味しくないのが現実ですよ。青い果実が美味しいなんてのは、幻想に過ぎません」
「いや、そうではない!たとえ青かろうとやって見なければ解らないだろう!それに、前向きに夢や愛を追い求めることこそ人類共通の理想像ではないか!」
「前向きなのは結構ですが、向こう見ずなのは困ります。前を向き、向こうを見ないとは足元を見ておられるのでしょうか?いいえ、足元も見えてはおりますまい。あなたは夢ばかり見て現況を忘れておられる。それは前向きではなく盲目的と言うのですよ。盲目的な愛や夢が果たして人を益するものかどうか……疑わしいですな」
「そうやって優柔不断を囲っているからこその現況ではないか!」
「あなたは確かに前向きだ。盲目的だとしてもね。しかし、家族や恩師はそれを望んでいるでしょうか?あなたのやることはこの内なる世界を外の世界に曝すということ、その道は修羅の道だ。その道行きに一体どれだけの人がついて来れる?今は静かだとしても、一年の大半は狂気の嵐に吹き荒れるこの世界に、どれだけの愛する人々が触れることができる?ここの封印はといてはならないんだ。ワタシはここに居なくてはならないんだ」
「俺はお前を渡りきって見せる!お前がいかに荒れ狂おうと、乗りこなして見せる!」
「本当に?それができると思っているのか?可笑しいな!これまで成功したことなど一度も無いのに!これまで三度、恩師に偉そうな口を叩いたなオマエは!でも、それはいずれも失敗したじゃないか!いまだに一つの論文も!一つの小説も!完成していない!オマエは口だけだ!光って見せているだけさ!見掛けだけの実体の無い、それでいて周りを焼き尽くす害悪、火そのものだ!」
静かに鋭き者が立ち上がって間に入る。
「そこまでにしないか。そうやって水を掛け合っている姿こそ、優柔不断そのものではないか。私は、現況のままで結構だと思うね。形式上、不振の原因に名前がついたことだし、言い逃れには困らない。小説だって論文だって全く進んでないわけではない。裏切り続けている現状は確かに対外的に問題ではあるが、それは些事と言える」
「アンタの価値観では、な。アンタも目標は火と同じではないか。そしてやりかたはよっぽど悪辣だ」
「正義感や湿っぽい情を歪めて皮肉しか言わず、それらに引き摺られてろくに何もできない君よりも余程現実的な選択だと思いますね」
波風が立とうとしている。それを木々がさざめいてなだめる。
「初めに火があり、それが圧力によって消え、土が残った。土から鋭く冷徹な金が生まれ、湿っぽい水が生まれ、そして木がそれらをなだめた。静かに動かないのは大地の宿命とは言え、しかし、猶予はどんどん少なくなり、選択の余地は無くなっていく。わたしも動くべきとは思います。しかし、それは周囲の人々に優しい動き方であありたいとも思います。難しいことですが、バランスを取りながら協力して事を進めるしか無いでしょう」
そして、実は選択の余地はそれしかないのだ。
桟橋にあぐらをかいて、ひじをひざについた僕はそう考える。
水面を叩くのは止めにしよう。これ以上、考えは何も出てこない。
とりあえず僕は立ち上がる。
泉から海に出て、海が荒れて、結果がこれか。
僕はどこへいくのだろうか?
そして、目を開く。
目の前にはパソコンがあり、「tp09_00d.txt」が開いてある。
tpという創作コードの第9バージョンの第00章。dはどの登場人物の視点から書かれているかを示す便宜上のマークだ。
まだまだ、先は長い。