機織女/寓話
真暗な空の下、延々と白い大地が広がっている。
星は無い。ただ、真白い満月がひとつ、ぽつんと空に浮かんでいる。
足元には草がまばらに生えているのだが、光が微かすぎてただ灰色に見えている。ほかは石ころのあまりない乾いた地面だ。
僕ははだしで立っていた。着物は着ているが粗末なもので、袖の無い無染めの貫頭衣であった。
何をするでもない。ただ、あてもなく月の方へと向かって歩き続けていると、かすかに民家らしきものが見えてきた。
近づいてみると茅葺屋根に土壁の古風な農家住宅である。僕はそのみすぼらしくも落ち着いた佇まいの建屋に、なんとなく懐かしさを覚えた。
見ると戸締りが不完全で、わずかに開いた戸の隙間から橙色の暖かそうな燈火の光が漏れ出でていた。
この世界で初めての見る彩りだった。
僕はその光に引き寄せられ、そろりと近づいてほとほとと戸を打った。
「もしもし、どなたかいらっしゃいませんか」
言いながら戸の隙間から中の様子を伺った。土壁や、それに掛けられた蓑や立てかけられた鍬が、橙に染まっているのが見えた。そして、規則正しい機織のリズムが聞こえる。
「どうぞ、お入りになってください」
戸の隙間に気を取られて脇見をしていたために、中から声がかけられた瞬間にすこしぎくりとしてしまった。機織のリズムに乗った、とても柔らかで人を安らかな女性のだった。
「あ、いや、こんな夜分に、その、女性の家にいきなり入るのは……」
僕はとっさに遠慮の気持ちが働いた。しかし、女性の声は僕の言葉を遮って穏やかに言う。
「私は機織から手を離すことができません。どうぞお入り下さい。ここはあなたの家なのですから」
声は確かにそう言った。
僕は、ああ、懐かしさはそのためなのかなぁ、とぼんやりと納得し、戸を押して中に入った。
屋内は左手が囲炉裏を囲った畳敷きの間で、右手が土間であり、土間の奥に機が一機あるのだった。そして、声の主らしき女性が淀みない一定のリズムで、延々と機を織っている。
僕の視線を察したのか、機織の女性は振り返った。振り返っている間も手を休めることはなかった。囲炉裏のゆらめく光源に照らされた顔は穏やかに微笑み、唇が柔らかに動いて言葉が流れ出た。
「どうぞ、お掛けなって」
その言葉に従って僕は居間の、機織の近くに腰掛けた。
機織の女性はほっとしたように目を細めて微笑んで、機の方へと向き直った。その拍子に、背中で房にまとめた長い髪が左右に揺れた。白い肌が揺れる炎でほのかに赤みを帯びているように見える。細面なだけでなく総身が細く造り上がっていて、しゃんとした背筋の描くラインが一輪挿しの花瓶のように優雅だった。着ているものは紺地に紅で複雑な紋様が入った振袖で、襷できりりと袖まくりしているために白い二の腕が露になっている。色取り取りの綾糸を白く細い指先が繰り動かして、鮮やかに文様を織り成す様は幻想的な光景だった。
「こんな夜までご苦労様ですね」と僕は声を掛けた。
「あなたが起きていらっしゃる限り、夜も昼もございませんから」そう彼女は
応えた。
「お休みはないのですか?」僕は訊ねた。
「ええ、そういうお仕事ですから」彼女は答えた。
答えながら彼女の手は止まらず、静かに綾を成していく。
「模様は何なのですか?」僕は興味を持って近づき、彼女の手元を覗き込んだ。
「あなたの記憶ですよ」彼女は静かに答えた。
確かにそこには見覚えのある光景が織り成されていっているようだった。
情景は、糸の色でなく凹凸によって描かれている。縦糸は白く、横糸は斑に染められた一本の糸のみであった。横糸の、一つの色に染んだ長さはまばらで、しばらく青色が続いたかと思えば、赤と黄色が小指ほどの長さで交互に続くといった具合であった。
「横糸はどうしてこのような染め方をしているのですか?」
「それはそのようにしか染められないからです。裏で姉が染をしております。どうぞご覧になってください」
彼女はそう言って綾糸を少し持ち上げ、元を見せてくれた。
「糸の元を辿れば行けますから」
なるほど、糸はずっと地面を這って裏手へと続いている。
僕は糸を踏まぬように気をつけながら、裏口へと出た。
裏手に洗い場が設けられていた。
糸はそこにある桶に続いており、その中に手を浸して座り込んでいる女性がいる。
「あなたが中の方のお姉さんですか?」
僕はそう声を掛けた。
「あの子は"おり"と言う。私には"そめ"という名がある」
凛とした声でそう答えながら、そめは糸を桶の水から引き上げ、素早く続きを手繰って桶に沈める。桶の中の水は澄んでいて、上げられた糸も染まらない無地のままだった。
「染料が入っていないようですが、良いのですか?」僕は訊ねた。
「良い悪いではなくそうするしかない。なぜならそれが私の仕事だからだ」そめはそう素っ気無く答え、答えながら糸を引き上げて次を手繰って沈める。
「心が動けば桶が濁る。濁った色に糸は染まる。桶の水は雨で満たし、足りなければ眠りの間に川へ汲みに行く。私の仕事はそれだけだ」そめは同じ作業を繰り返しながらそう話してくれた。
「心……もしや色は感情を表しているのですか?」僕は訊ねた。
「そうだ。お前の心の色が、すなわちこの水の色となる。悲しければ青、喜べば黄、怒れば赤く、穏やかなれば緑に……そうやってありのままを記録する」そめはそう答えた。
しばらく言葉もなくそめの手つきを眺めていた。やがて水がほのかに緑に色づいてき始めたのを見て、なんとなく僕は目を逸らした。
そめが手繰る糸の先を見ると、まだまだ奥へと続いているようだった。
「糸を紡ぐ人もいるのですか?」僕は少し仕組みが解ってきてそう言った。
「ああ、この糸をさらに辿ると小屋があり、そこで"つむ"という姉さんが糸を紡いでいる。けれど辿っても仕方ないぞ。姉さまは一言も喋りはしないからな」そめはそう言った。
始めから終わりまで、そめは一度も顔を上げることは無かった。見下ろした横顔はおりとは違って色黒く、顔や手や着物は桶の染料で斑に色づいていた。髪も短く切り揃え、うなじも露わになっている。しかし、一番心に残ったのは一心に桶に手を浸す彼女の澄んだ瞳であった。その眼差しをまたしばし眺めた後、その場を後にした。
糸はそめの手元からさらに延びて隣の小屋へと繋がっていた。小屋に戸は無く、灯台に蝋燭を灯して一心に糸を紡ぐ女性の姿が見えた。彼女がつむであろう。
つむはおりよりさらに色白く、総髪はまとめることも無く末広がりに広がって床についてしまっていた。着ているものは真っ白で、およそ人というよりも神霊のような厳かさをもって糸を紡いでいた。
僕はそちらへ近づくことは無く、ただ遠間に眺めるに留まった。
そして、これまでの誰よりも早くその場を後にした。
母屋に戻るとおりは変わりなく機を織っていた。
本当に休むことは無いようだった。
「織った反物はどうするのですか?」僕はおりに訊ねた。
「寝ている間に"たち"が起き出して裁ち、"ぬい"が着物に縫い上げます。そしてそれを目覚めたあなたが着てゆくのです」おりはそう答えた。
「なるほど、僕が着てゆくのかそれは」
「そうです、これはあなたの記憶なのですから」
「ならば今日着ていた物はどちらに?」
「寝床の行李に入ってございましょう?」
「ああ、本当だ。しかし、これはあちこち色褪せたり擦り切れたりしている」
「それを"たち"が裁ち落とし、"ぬい"が新しい布を当てるのです」
「裁ち落とした切れ端はどうするの?」
「捨てるわけではありません。ただ、綿の代わりに詰めてしまいますからなかなか目に付くことは無いかもしれません」
「そうか、そういう仕組みなのだね。そして、僕があなたを見ているからあなたは眠らない」
「そうです、記録は止まりません」
「なるほど、それですべてが納得行った。それでは僕は眠るとしよう」
「はい、それではおやすみなさい」
「ありがとう」
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いつだったかこんな感じの夢を見たのだけれどいつの夢だか忘れてしまったので、自己満足に過ぎないが物語風味に仕立て直してみた。
元々の夢は機織の女性にしか会わず、名も知れなかったのだけど、まあ、ちょっと拡張してというか何と言うか。
色は五行に合わせようかと思ったけど、個人的実感と異なるからやめといた。
(追記070831)
夢に見たままになっていて物語的に不十分な点があるので(例えば、おりが手を休めて戸を開けに来るのは設定的におかしいとか)、あとで修正する。
(推敲070913)
上記に予告した通りいくつかの推敲を行い、また、誤字脱字および誤記を改めた。