「恋人」というもの/myself

「なんで彼女がいたことがないの?」と訊かれた。

「僕で幸せにできると思えたことがないから」と答えた。

想っているだけで幸せ。

想い人の幸せは人任せ。

「他の人に取られちゃうよ?」

その疑問は当然。

「その人が幸せならそれでいいんだよ」

その返答は定番。

じゃあ、自分の幸せは?

それに関して二つの考え方がある。

一つは、夢を叶える幸せのこと。

僕は漫画や小説に命を救われたと感じていて、だから作家に強い憧れがある。その夢が叶ったら、きっと幸せだろう。

でも、それは死んだと思うくらいの苦境にあって、他者との関係性に対して否定的な感情を孕んでいるものだから、あまり夢を追う時に身近な人のことは考えないだろう。

一つは、今の幸せのこと。

みんなと仲良く、みんながこうして欲しい、ああして欲しいというのに応えながら生きていく生活。とても幸せ。助けを求められた時に動いて、そうでない時は知識を溜め込む作業。主体性は無くて、要請に応えるリアクションの人。自分で考えて動いても怒られるだけだと思ってる。求めたら応えてくれるのかが不安で応えるのみに終始している。誰かに頼みごとをするのも怖がっている。

この「人間嫌い」と「人間嫌われたくない」との二面性の中で、積極性は前者にあるもののその志向から身近な人ほど傷つけてしまう可能性があり、後者はそもそも主体的な願望を実現する行動力を持たない。

だから、恋愛に関して主体的な行動を起こさないという二つの視点からの意見に一致が見られる。

他人に迷惑をかけるという理由で小説が進まなかったりするのとは事情が異なる(係争中)。

率直に言えば、告白したところでそれがどっちに転ぶかなんて相手次第なんだけれど、ただでさえ時間が足りないと感じているのに、彼女にまで時間をとられるのもね、と思う部分もある。

でも、もしよろしければお付き合いさせていただきたい。助け、助けられる関係って憧れます(←実はそういう関係は恋人同士に限らないわけで、実際冷静な観察をすれば研究室ではそういう助け合い関係から成り立っているのに、本人にその実感があまり無い)。

前者は後者の派閥を「主体性無く他人の言うことばっかり聞いて、自分の頭を働かせようとしない惰弱な生き方」と考え、

後者は前者の派閥を「夢と言う不確実なものを大義名分に掲げて、恩人との関係性をないがしろにする不義理な生き方」と捉えている。

それはどちらも正しい。

そしてどちらも自分らしい考え方である。

それらは前述した如く、生命の危機から(私は生命の危機に対して多少過敏なきらいがある)得た考え方であり、どちらがより私らしいと言うことはない。あえて言うならば後者の方が子供染みていてより正統性が高いのだが、しかし、考える内容は立派だが最終目標が子供染みているのは前者だったりする。

そういう多面性の中で、果たして恋愛関係を維持できるか、というのは正直疑問に思う。

でも、彼女の前では素直になれるのだとしたら、そういう「素直」な中に一貫性が生まれるかもしれない。それはラブラブ度が高いほどそうなるだろう。それなら良いのだけれど……ただ、そうなると逆に別れることになったときの反動が怖い。ぱっきーんとぶっとんじゃうかもしれない。

よって、結論は「保留」なのである。

恋愛ってもっとも感情エネルギーを投入する活動だから、慎重にならざるを得ないです。

でも、理解されたいと思いつつ、理解されないのであれば理解への努力を避けようとする。

それも恋っぽいと思うんだよねえ……。

(こうやってウラをかくことで追求をかわしつつ更なる伏線を張ろうとする打算的な人間)

(こういうエントリーっていわゆる「かまってちゃん」っぽい。何か主張するなら何かを成してからにしろよ)