想像力の悪い使用例/myself

僕の悪い習慣の話です。

ちょっとグロい話になります。

小中学生がよくやるいたずらに「相手を高いところから落とすふり」というのがありますでしょ?

僕は中学校入学時点で133cm、30kg、卒業時点で147cm、体重は37kgとかだったのでこのいたずらの格好の標的だったわけで、経験には事欠きません。少なくとも毎週はやられてました。

(注:こういう記事を冷静に書けているってことは、内容とは裏腹に今の心境は非常に安定していることを意味しています。つまり、これはほとんど解決済みの問題なのです。ご安心を)

あれには2つのパターンがあります。

一つは、柵などの転落防止の措置が取られている場所に寄りかかっている時に、不意に抱えたり持ち上げたりされて体が柵を乗り越えるパターン。

もう一つは、柵などの転落防止の措置が取られていない場所で、近づいていないのに無理やり抱え上げられて宙ぶらりんにされたり、不意に後ろから押されるパターン。

どっちもやられる側はすごく怖い。特に、後ろから押されるのは怖い。ほんとに怖い。電車が来るタイミングで押されたりすると……

やる側はやられる側を掴んでコントロールしていたり、実際に落ちるまでは時間があって本当に落ちそうだったら掴めばいいと思っているから、安全と思っていられます。しかし、やられる側は、もしかしたら掴まれている服が脱げたり破れたり、手が滑ったり、犯人が間に合わなかったり、相手に殺意が兆したりする可能性を絶対に否定できないわけです。むしろ死ぬという確信を得るのです。そして、そんな状況にあって、自分でコントロールできることは何一つ無いんです。

これは大変なストレスです。

僕は想像力が豊かな少年でしたので、最初にいたずらされた瞬間に「あ、死んだ」と思って、同時に「落っこちて叩きつけられて地面に血を流しながら倒れ伏す自分の映像」を想像しました。いたずらした奴が服を掴んでいて、地面が足に付いた瞬間も頭の中はその死んでいる自分の映像が脳裏に浮かんだままで、その日一日は消えませんでした。

人間って、経験を積むとその分思考が早くなるでしょ?その後、いたずらされるたびに想像はエスカレートしました。しまいには、「そのまま4階の窓から落っこちて、10数メートル下の駐輪場の青いトタンの屋根に落ち、頭から血を流して死んでしまい、流れ出した血がトタンを赤く染める様」を簡単に想像できるようになり、そういういたずらを仕掛けられそうな場所に近づいたらすぐその場で落っこちたらどういう死に方になるかを想像する習慣がついてしまいました。そして、それと同時にこういういたずらを受けて死ぬ可能性があっても仕方ないと思うようになりました。

恐怖に対して慣れようとする心理的現象なのでしょう。

そのうち、高い所に行って下を見るとすぐにそこで落っこちて自分が死ぬ様を想像したり、駅のホームで電車を待っているだけでひき殺される自分を想像してしまったりするようになりました。別に想像しようと思って想像しているわけではなくて、条件反射で脳裏に浮かぶようになったのです。パブロフの犬ですかね。

それも気持ち悪かったのですが、その気持ち悪いのに対して慣化は更に進行しました。むしろ自分から想像に加担するようになったのです。

この高さならこんな感じかな、このスピードなら四肢断裂かな……「ここから転落したら一度あの小さな張り出しに当たって足や方が折れ、しかる後回転しながら地面に叩きつけられる。足から落ちれば衝撃によってこういう順番で体は崩れていき、最終的にこういう傷を負って倒れる。逆に頭から落ちたらここからこうなって……」

そして、落ちる光景を想像した場所の下を通るとき、転がってる死体を想像したり……何度も落とされかけた場所には僕の「可能性の死体」が折り重なって死んでいるんだろうと思ったり……

気分が落ち込んでいる時ほどそういう想像を楽しんでしまいます。

ちょっと自己嫌悪。

あのいたずらをされていなかったらこんな悪趣味な習慣はつかなかったのになぁ、と思ったりする今日この頃です。

それ以外にも、危険な所への本能的警戒心が低いな、と思ったりします。

それで、本能を補うために意識的に高い所や危険そうな場所には近づかないようにしたり、大学生の時は理性が低下しないようにお酒を控えたりしていました。流石に最近は自分が結構飲めるのが解ってきたし、落ち込んでいる時以外なら酔っ払っても大丈夫と解りましたので、酒量は大分増えましたけど。

でも、危ういことには変わりないと思ってます。

みなさん、いたずらをする時は結果を想像し、しっかり相手を選んでください。

割と、取り返しがつかないことになります。

想像上での自分の死に慣れることは、死への恐怖を減じる効果がある。そして、それは「共感」というシステムを逆に辿って他人の死に慣れることに等しい。極限まで追い詰められた時、人は想像を現実にするよう迫られる。そしてそれはこの二者のどちらかとなる。