you, I/思索

高度に発達した友情は愛情と区別が付かない。

「友愛」という言葉があるくらいなので、これは真実だろう。

「男女の友情は成り立つか?」が論議となるのは、つまりそこに「男女」という概念が存在しているからでしょう。

本当の友情や愛情というのは、性別や年齢と無関係である。「愛」の問題は、それ単独では「親愛」と「性愛」の両方の意味に取れることに糸口があるように感じる。この二者は本質的には全く異なるものなのだが、しかしこの言葉のほとんど不可分と感じられる結びつきは、この二者が極めて近接した概念であることを示唆している。

例えばここに二人の男女が居るとして、友情から発展してお互いに愛情を感じるに至ったとする。愛情はつねにほのかな高揚感をもたらすものだが、果たしてこの二人はこの愛情に伴う興奮とも取れるこの反応を性愛と結びつけずに考えることができるであろうか?否、結び付けてしまう場合がほとんどであろう。ましてや、性欲旺盛な若い頃ならばなおさらである。

男女の違いを超えて友情、ひいては愛情が育まれうることは事実である。しかし、本能的欲求である性愛が邪魔をして、性的に枯れてしまうまでそれに気づくことは難しくなってしまっている。

ゆえに、男女の友情は真理としては成立しうるが、実際的には困難であるといわざるを得ない。

では、そもそもなぜ親愛の情に高揚感が伴うのであろうか?

それはおそらく、お互いの親愛を確信した際に生じる安心感が喜びに繋がるためであろう。そう感じるように進化した人が生き残りやすかったのかもしれない。いずれにせよ、人はそれに喜びを感じるように出来ている。

喜びはいつも高揚につながる、そしてそれが誤解されるのだ。

…と思います。以上、フリーズドライ思考終了。以下、ウェット思考で。

これを逆に考えれば、友情を経過しなければ愛情に到達することはできない、という風になると思います。

ゆえに僕は、友情を形成することに困難を覚えていた中学生以降に、なかなか恋愛感情に至れなかったことも当然と考えている次第です。