『四季・冬』森博嗣(講談社)/小説

S&Mシリーズ、Vシリーズ、そしてGシリーズを貫く四季シリーズ。

第四作・冬を読んで考えたことです。

以下、きっとネタバレ。

犀川をシミュレートしなかった四季。

憶えていることからすべてが再構築され、時間を超越する。

瀬戸ちいが懐かしい。

死ぬことに意義を見出せないから死ねない。

矛盾しているのに生きているのは、矛盾を許容できるから。

それが、人間らしさ。

怒り、悲しみ、そういう意味の無いものに心を奪われるのが人。

意味の無い連想、発想、感傷。それも人。

犀川の子孫はあのラストシーンの後、四季に追いつけただろうか?

(追記1/070405)

子供は天才だよね。

何になるのかわからない状態。

成形する前の土くれ。それをこねて、伸ばして器にして、そこに情報を注いでいく。

その器の形を決めるのは環境要因。その土くれの素材としての特性が遺伝要因。

子供の間にどれだけ良い環境にいられるかは、その子供の器を決める。

けれども、入れる情報の質もまた、大きな要素だ。

素材が良すぎた場合の出来過ぎの場合のシミュレート。

彼女は、論理の成長が早すぎてすべてを経験としか認識できなかった。そして、無駄を会得するのが遅くなった。

多分、環境のせい。

(追記2:070405)

生物の多くには死ぬこともその重要な機能である。

集合体としての生物は自然淘汰によってその環境に適合した遺伝情報を選択的に残していく。親となった者たちはつまりは旧式であるのだから、生存のための資源が有限である以上新世代のために席を空ける=死ぬことが機能として必要となってくる。

しかし、人間の場合は遺伝という情報以外に、知識という情報を伝達することができる。そうして知識的子孫、非物質的な“子孫”を残すことができる。そこに長生きする意味がある。

そして、だから四季は死なない。彼女しか生み出せない情報がたくさんある。

だから、だれかが追いつくのを待っているのではなかろうか?